《秋の賀の歌 その二 定国の栄耀》


内侍のかみの右大将ふちはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた  そせい法し

ちとりなくさほのかはきりたちぬらしやまのこのはもいろまさりゆく (361)

千鳥鳴く佐保の川霧立ちぬらし山の木の葉も色勝り行く

「秋
内侍の長である藤原満子が兄である藤原朝臣定国の四十賀をした時に、四季の絵が描いてある定国の後ろに置いてある屏風に書いた歌  素性法師
千鳥が鳴いている。佐保川の川霧が立ってしまったらしい。山の木の葉も色が勝っていく。」

「(立ち)ぬらし」の「ぬ」は、自然的完了の助動詞「ぬ」の終止形。「らし」は、根拠のある推定の助動詞「らし」の終止形。
千鳥の鳴く声が聞こえてきます。その声から推定すると佐保川には川霧が立ってしまったらしい。秋がいよいよ深まってまいりました。だから、佐保山の木の葉もその美しい紅葉の色が一層勝っていくのです。そのように定国様のご栄耀は、四十という人生の秋をお迎えになってますまず盛んになっております。
この歌は、前の歌と同様に定国四十歳の賀を祝う歌である。もちろん、長寿を願う思いも含ませてはいる。しかし、表向きには現在の栄耀を讃える内容になっている。この歌では、威風から栄耀へと焦点を替えている。屏風絵に描かれた紅葉の風景が栄耀を象徴していると言うのだ。この歌も、単独であれば、前の歌と同様に秋の歌と解せる。千鳥の鳴き声、白い川霧、赤や黄の紅葉と秋の深まりを立体的に表現している。しかし、詞書によって賀の文脈に置かれて賀の歌となっている。このことから、言葉の意味を決めるのが最終的には文脈(コンテクスト)であることがわかる。

コメント

  1. まりりん より:

    確かに、詞書がなければ賀の歌とは思いませんね。単純に深まる秋を詠んだ歌に思えます。
    意味を決めるのが最終的にコンテクストだと、本当にそう思います。前後がわからない故に意味が通じなかったり誤解したり、その結果争いになったり、が日常に溢れていますものね。
    それにしても四十路が人生の秋とは、現代の感覚ではなかなかしっくり受け入れにくいです。自分としては夏真っ盛りなイメージです。

    • 山川 信一 より:

      コンテクストこそ意味を決めます。これは語用論の考え方です。言葉の解釈には、誰がなぜどんな場面で言ったのかが欠かせませんね。
      40代が夏真っ盛りと言うのは、同感です。振り返ってみればまさにそうですね。

  2. すいわ より:

    私の中のイメージだと、千鳥は冬、佐保は春、川霧立ち、これは秋。
    初見、頭の中が大渋滞しました。
    詞書は秋。「やまのこのはもいろまさりゆく」すっかり秋ですね。
    秋の立ち位置からこれまでを振り返り、これから先訪れる冬へと繋ぐ。
    358番の歌のコメントで「春夏が右隻、一曲と二曲の間に霞を描いて山桜を描いてあるのかしら、と想像してしまいました。」と書いたのですが、右隻の屏風を佐保山(東)と見立てると場面の切り替えに描かれる霞は「かはきりたちぬらし」ととらえられるのでは?そして左隻の屏風、竜田山(西)とは言っていませんが、「やまのこのはもいろまさりゆく」絢爛豪華な錦に身を包むのは?定国さん、四十歳、おめでとう、という事なのでしょう。今、まさに権勢の頂点。その人のお祝いに言寄せて周囲に揺るぎない権力を示す機会として好都合な訳ですね。さて、この後、冬をどう表現するのか見ものです。

    • 山川 信一 より:

      屏風絵を見渡した鑑賞ですね。恐らく、それぞれの屏風絵は全体の中での意味を持っていたのでしょう。そして、歌が定国の長寿を祝うという意味を加えます。この歌の紅葉は、まさに絢爛豪華な錦、定国の栄耀そのものです。権勢の程が伝わって来ますね。

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