《恋の逆説》

題しらす よみ人しらす

いせのあまのあさなゆふなにかつくてふみるめにひとをあくよしもかな (683)

伊勢の海人の朝な夕な潜くてふみるめに人を飽く由もがな

「題知らず 詠み人知らず
逢瀬であなたに満足する方法があったらなあ。」

「伊勢の海人の朝夕な潜くてふ」は、「海松布」を介して「見る目」を導く序詞。「(由)もがな」は、願望の終助詞。
伊勢の漁師は毎朝毎夕海に潜って海松布を採ると聞いています。さすがに「海松布」には飽き飽きしていることでしょう。その「海松布」ではありませんが、私もその漁師のようにあなたの顔をもう沢山だと思えるほど見て、飽き飽きする方法があったらなあと思わずにいられません。あなたにいくら逢っても堪能できずにいるのです。
作者は既に相手に逢うことはできている。しかし、今の頻度では満足できないから、毎朝毎晩逢いたいと言うのである。その思いを海松布を採る漁師の姿に託している。
この歌も、前の歌と同様に、序詞によって読み手に具体的なイメージを持たせている。ただし、自然現象ではなく、人間の動作という違いがある。編集者は、この共通点、相違点を考慮してここに並べたのだろう。一方、「人を飽く由もがな」は、逢瀬に飽きたいと言うのだから、ある種の逆説である。この表現には、読み手に立ち止まってその理由を考えさせる効果がある。編集者は、この表現法を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    そこに海松布があるからと、朝というでもなく夕というでもなく海人たちは海へと潜っていく。きっと飽き飽きしながら潜っているに違いない。私ももう何度となく君の元に通っているけれど海人たちのように「もう君に逢うのは充分だ」と思える術があったらいいのにと思う、、。何故って会っても会っても満たされない。満たされる方法を聞いてみたい。海人のように朝も夕も始終逢えたらそう思えるようになるのか、、?複雑な思いを別の人の全く違う行動になぞらえる発想が斬新です。

    • 山川 信一 より:

      「海人のように朝も夕も始終逢えたらそう思えるようになるのか」とありますが、作者は既に海人の海松布のように朝夕恋人に逢っています。それなのに恋しくて苦しくてならないのです。海人との違いはそこにあります。

  2. まりりん より:

    恋愛の段階が進んで、逢いたいだけ逢えるようになった。朝な夕なに逢えるのだから、結婚出来たのでしょうか。
    でも、この歌も前の歌と同様、満足出来ないことを嘆いている。嘆きは大きいほど、哀しみは深いほど、ドラマチックだから?

    • 山川 信一 より:

      私はイタリア歌曲を習っています。その恋の歌は、悲しみの歌ばかりです。恋の喜びを歌う歌は稀です。イタリア人も平安貴族も恋への思いは同じようです。万葉人は恋を「孤悲」と書きました。恋とは、人地悲しむことなのです。悲しくなくなったら、それは恋ではありません。

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