《不変の心》

題しらす よみ人しらす

あすかかはふちはせになるよなりともおもひそめてむひとはわすれし (687)

明日香川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ

「題知らず 詠み人知らず
明日香川が明日には淵が瀬となる世であっても、思いそめてしまう人は忘れまい。」

「(世)なりとも」の「なり」は、断定の助動詞「なり」の終止形。「とも」は接続助詞で仮定を表す。「(思ひ)そめてむ」の「そめ」は、「初め」と「染め」の掛詞。「て」は、意志的完了の助動詞「つ」の未然形。「む」は、未確定の助動詞の連体形で婉曲を表す。「(忘れ)じ」は、打消推量の助動詞の終止形。
明日香川が昨日の淵が今日は瀬になるように、世の中が変わりやすくても、私が思い始め心を染めてしまうあなたのことは忘れないでしょう。
仏教で言う「諸行無常」の思想を歌にした「世の中は何か常なる明日香川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」を下敷きにしている。たとえ「諸行無常」であっても、自分の心だけは変わらないと言う。
この歌は、全体が仮定で語られている。「明日香川淵は瀬になる世なりとも」を仮定にして、「(思ひそめて)む(人は忘れ)じ」と未確定のこととして自分の意志を言う。しかし、「明日香川淵は瀬になる世」は事実である。ならば、「思ひそめてむ人は忘れじ」も未確定のことではなく、事実になるという仕掛になっている。編集者は、この「とも」「む」「じ」による修辞を評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    諸行無常なのだから、「思いそめてむ人は忘れじ」と言い切ることに違和感がありました。でも、過程が事実であるから、将来の未確定の出来事も事実となる、と。なるほど、今どきの言葉を使うと「芸が細かい」ですね。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、仮定と未確定の表現で作られています。それで言いたいことは事実。本当に「芸が細かい」。『古今和歌集』は、知性と感性を融合した和歌集ですね。

  2. すいわ より:

    「淵は瀬となる」事実に未確定の自分の意思を添わせて「確定」させる、なるほどそこまで読み至りませんでした。
    どんなに淵のように深く思っていても心は流れて明日には瀬のように心浅くなるのが世の常とはいうけれど、源流の川の水が一続きであるように、あなたを思い初めたら、あなたひと色、決して忘れることなどないでしょう、、。淵と瀬の対比も瀬の浅さよりかえって早瀬、思いの勢いを思わせて成功しているように思います。

    • 山川 信一 より:

      明日香川の淵と瀬の対比が「深さと浅さ」より「淀みと勢い」を表しているというご指摘、納得しました。無常のたとえでも、それを暗示していれば更に効果的ですね。

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