《持て余す恋情》

題しらす 伊勢

ゆめにたにみゆとはみえしあさなあさなわかおもかけにはつるみなれは (681)

夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝な我が面影に恥づる身なれば

「題知らず 伊勢
夢にさえ逢うとは見せまい。毎朝鏡に映る自分の姿に恥じる身だから。」

「(夢に)だに」は、副助詞で程度の低さを言う。「(見え)じ」は、打消意志の助動詞「じ」の終止形。「(身)なれば」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。倒置になっている。
あなたには、現実はもちろん、夢にだって逢おうと出ていきません。だって、毎朝鏡に映る自分の姿に恥じている私ですから。なぜ恥じているかですって、そこまで言わせないでください。あなたとの逢瀬の激しさに痩せ衰えているのですよ。
作者は、現実はもちろんのこと、夢の中でさえ相手と愛し合うと、その激しさに心ばかりか身までも痩せ衰えやつれてしまうと言う。だから、もう逢おうとは思わないと言う。しかし、決してもう相手に逢いたくないと言っている訳ではない。こう言うことで、自分でも持て余してしまう恋情を細やかに伝えているのである。真の自分をわかってもらうためにである。本当に逢いたくないのなら、歌など贈らず逢わなければいいのだから。
この歌は、女心を大胆にかつ細やかに歌っている。男に逢った翌朝の自分を伝えるという切り口は斬新である。女ならではの内容と表現になっている。歌の構成も、一二句で意思を述べ、三四五句で理由を述べるなど読み手の関心を惹く工夫をしている。編集者はこうした点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    貴方と思いを遂げて当然の如く逢えるつもりでおりました。待っても待っても貴方はいらっしゃらない。貴方をお迎えするために身繕いした我が身を朝を迎えるごとに鏡で見て、あの嬉しかった日と比べてしまう。こんな恨みがましい、満たされぬ表情では夢の中でさえ会うことが叶わない、こんな姿、決してお見せしまい、と思ってしまうのです。はしたないとは思うのですがどうかあなた、会いに来てください、、。
    全く違う解釈になってしまいました。

    • 山川 信一 より:

      この歌は「恋歌四」にあるのですから、〈逢えないつらさ〉ではなく、〈逢えるつらさ〉を詠んでいます。逢えないことはもちろんつらい。けれど、逢えることだってつらいと言うのです。ここに、この歌の発見=詩があります。「朝な朝な我が面影に恥づる身なれば」は「夢にだに見ゆとは見えじ」の理由になっています。「見えじ」は夢にさえ出ていかない作者の意志です。ならば、なぜ「朝な朝な我が面影に恥づる」のでしょうか。身も心も相手に捧げて痩せ衰えた自分が恥ずかしいからです。これは大人の女の歌です。

      • すいわ より:

        逢える辛さ!現実にも夢の中までも逢瀬を重ねている訳ですね。寝ても覚めても貴方を思い、自分の身は貴方だけを求めてやまない、あなたとの逢瀬に全てを注ぐあまり面やつれして、そんな姿は見せられない(ほどにただただ貴方をお慕いしているのです)、モテる女の発想ですね。「思いを遂げて貴方は私のもののはずなのに、、」なんてケチな内容ではないですね。参りました、お手上げです。

        • 山川 信一 より:

          『古今和歌集』の歌は、素直な喜びを歌いません。たとえ結ばれてもそれを元に新たな嘆きを見つけます。その姿勢で見れば、悲劇の種はどこにでもありますね。それにしても、伊勢はよくもこうまで言えますね。おっしゃるように「モテる女」なのでしょう。

  2. まりりん より:

    「我が面影に恥づる身なれば」は実際と裏腹のことを言葉にしているのかと思いました。逢った翌朝は、きっと幸せな気持ちに満ちていて肌は潤って美しい筈。本当は誇らしい美しさなのに、わざと逆のことをいって人から否定して貰いたいのかも、と天の邪鬼なことを思ってしまいました。

    • 山川 信一 より:

      大人の女は一筋縄ではいきません。何重にも仕掛けてきます。おっしゃるように、事実としては「幸せな気持ちに満ちていて肌は潤って美し」くても、それをその通りには決して言いません。「あなたのせいでこんなにやつれてしまいました。朝鏡を見てびっくりしましたのよ。あなたは本当にいけない罪なお方ですね。」などと言うのです。大人の恋は、言葉を介した心の読み合いゲームなのでしょう。伊勢は、私の手には負えそうにありません(笑)。

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