《恋の主役は私》 古今集 巻十二:恋二

題しらす 小野小町

おもひつつぬれはやひとのみえつらむゆめとしりせはさめさらましを (552)

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらまし

「思いながら寝たから人が見えたのだろうか。夢と知っていたら覚めなかったのに。」

「(思ひ)つつ」は、接続助詞で反復・継続を表す。「(寝れ)ばや」の「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(見え)つらむ」の「つ」は、助動詞の終止形で意志的完了(終わり)を表す。「らむ」は、助動詞で現在の出来事の原因理由を表す。ここで切れる。「(知り)せば」の「せ」は、助動詞「き」の未然形で過去を表す。(あるいは、サ変動詞の未然形。)「ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(覚め)ざらましを」の「ざら」は、打消の助動詞「ず」の未然形。「まし」は、助動詞の連体形で反実仮想を表す。「を」は、接続助詞で逆接を表す。
恋しいお方を思い思いしながら寝たから、夢に現れたのでしょうか。その時は、夢などとはとても思えませんでした。しかし、幸せな時は直ぐに過ぎ去り、目が覚めてしまいこれが夢だと悟ったのでした。あの時に、夢だと知っていたなら、目覚めなかったのに・・・。
平安時代には、夢に恋しい人が現れるのはその人が自分のことを思っているからだと信じられていたと言う。もしそうであるなら、この歌は、その常識・迷信への挑戦である。作者は、私がその人を思っているから夢に現れたのだと言うからである。その思いを意志的完了の助動詞「(見え)つ(らむ)」で表している。その上で、目が覚めてしまったことを自分の責任だとして後悔している。つまり、相手の男を当てにしていないのである。ここから作者の小町の人物像が想像される。意志の強いしっかりした女性だったのだろう。
『古今和歌集』の歌は、助詞・助動詞を駆使した歌が多い。この歌もその典型である。常識や迷信にとらわれない人物の持つ細やかな感情を助詞・助動詞によって表している。編集者はこの点を評価したのだろう。恋二では、恋一の「詠み人知らず」の普遍性の強い歌に対して個人の個性的な歌を配している。

コメント

  1. まりりん より:

    いよいよ恋二ですか。
    小野小町のこの歌は、私でも知っているくらい有名ですね。
    「夢とわかっていたら醒めなかったのに」というこの感覚は、大切な人を思う時、現代でもしばしばありますね。
    この時代は思われると夢に出るとされていた事、知りませんでした。

    • 山川 信一 より:

      この時代は、夢に人が現れるのはその人が自分を思ってくれているからだ、現れないのは思っていないからだと信じられていました。たとえば、『伊勢物語』に次の歌があります。「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」この歌は、相手が自分のことを忘れていることを悲しんでいます。それに対して、小町は自分がその理由を私が思い思いして寝たからだと言うのです。ここに小町の個性、この歌の新しさがあります。「夢とわかっていたら醒めなかったのに」と言うからには、その時は夢とも思えないほどリアルで幸せな気分だったのでしょうね。この表現は夢の内容を想像させます。

  2. すいわ より:

    さすが小野小町、恋の主導権は自分にあって、思われるのを待つのではなく自分の意思で思い人を手繰り寄せる。「ゆめとしりせはさめさらましを」、夢とは思わず目覚めてしまった、という事はこれが夢の中ではなく現実世界だとしたら、彼女にロックオンされたら逃れられなそうです。

    • 山川 信一 より:

      小町は自分に自信があったのでしょうね。その支えは何でしょうか。それは、おそらく美貌でしょう。美しい女は強いのです。でも、小町に捕まるのなら、男は逃げられないことを喜ぶのでは?

タイトルとURLをコピーしました