神のやしろのあたりをまかりける時にいかきのうちのもみちを見てよめる つらゆき
ちはやふるかみのいかきにはふくすもあきにはあへすうつろひにけり (262)
ちはやぶる神の斎垣に這ふ葛も秋には敢へず移ろひにけり
「神の社の辺りを通った時に玉垣の中の紅葉を見て詠んだ 貫之
神社の周りの玉垣にのびる葛でも秋にはこらえきれないで色を変えてしまうのだなあ。」
「ちはやぶる」は「神」に掛かる枕詞。神の威勢を暗示している。「葛も」の「も」は他にも類例があることを暗示する係助詞。「移ろひにけり」の「に」は完了の助動詞の連用形。「けり」は詠嘆の助動詞の終止形。
ここは神のご威光が働いている領域である。ならば、他の地とは違っていてもよさそうなものなのに、玉垣に這えている葛までもが紅葉している。神であっても、木々の紅葉を止めることができないのだ。神社はすっかり紅葉に包まれている。そこにはどんな力が働いているのだろう。
この歌に詞書きはどう働いているのだろう。詞書きが有っても無くても、内容は変わらないように思える。詞書きによる情報が少ない。作者は、なぜこの歌を詞書きとセットにしたのか。詞書きに「まかりける時に」「見て」とある。これは、作者が実際に経験したことを表している。ならば、詞書きは、この歌が経験から生まれた実感であって、想像によるものではないことを伝えている。つまり、「移ろひにけり」という感動を支えているのである。
この歌にも木の葉がどうやって紅葉するのかについての強い関心があることがうかがわれる。
コメント
繁殖力旺盛でどこにでも蔓延ってゆく葛、斎垣にまで絡み付いて、、。
貫之自身はお社の外から神域の紅葉を見ている。神域の外から入り込もうとする葛。恐れ多いこと、でも、神域の力か、葛もその色に染められて色付いているではないか。
と詞書から取ってみました。
逆を考えてみたのですね。しかし、「葛も秋には敢へず」の解釈と合いません。やはり無理があります。葛を紅葉させるのは、秋の力によるのです。