《冬の月光》

題しらす 読人しらす

おほそらのつきのひかりしきよけれはかけみしみつそまつこほりける(316)

大空の月の光し清ければ影見し水ぞまづ凍りける

「大空の月の光が清いので、月影を見た水がまず凍ったことだなあ。」

「月の光し」の「し」は、副助詞で強意を表す。「清ければ」の「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「見し」の「し」は、助動詞「き」の連体形で、直接経験を表す。「水ぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「凍りける」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
大空に冬の月が掛かっている。月は小さく見えるけれど、冬ならではの冷たく澄んで清らかな強い光を放っている。その光によって、さっきまで月影を映していた水が真っ先に凍ってしまった。これからすべてのものを凍らせるに違いない。
作者は、冬の月の光の特徴を次のように言う。冬の月の光は、冷たく澄んで清らかだ。しかし、ただ美しいだけではない。大空の中にぽつんと小さく見える月ではあるけれど、その光は、さっきまで月が映っていた水を手始めに凍らせ、続いて地上のものをすべて凍らせるほどの力を持つと。冬の月の光を視覚、触覚だけでなく、その影響力からも捉えている。
普通月と言えば、誰しもが秋の月を思い浮かべる。秋は月が美しい季節だからだ。『古今和歌集』にも、194「久方の月の桂も秋は猶紅葉すればや照りまさるらむ」195「秋の夜の月の光しあかければくらぶの山も越えぬべらなり」がある。それに対して、冬の月は、『枕草子』に「すさまじきもの、おうなのけさう、しはすの月」とあるように、興醒めなものとされていた。この歌は、そういう常識に対抗して詠まれている。芸術は常に超常識を目指す。その意味で前の歌が寂しさにおいて秋に勝ると言うのと通うところがある。それ故、ここに並べられているのである。
この歌は、李白の『静夜思』の「床前月光を看る/疑うらくは是れ地上の霜かと」にヒントがあったのだろうか。また、ドビッシーの『月の光』を聴きながらこの歌を読むと、この曲がこの歌を元に作られているように思えてくる。芸術は通い合う。

コメント

  1. まりりん より:

    本来、月の光で周囲のものが凍ることはあり得ないですよね。それなのに水が凍ると言っているのは、それほど強いエネルギー、パワーを月の光に感じたのでしょうね。天気のよい夜に雲に隠れることなく暗闇を照らす月の光は幻想的で、それこそがくや姫が光の中を降りてきそうです。

    • 山川 信一 より:

      月の光が水を凍らせる。水を凍らせるほどの月の光にはパワーがある。何という新鮮な感覚でしょう。古典が古いなんて、誰が言えるでしょう。現代人の方がずっと感覚が鈍っていますね。

  2. すいわ より:

    冬の清澄な空、霞も霧もない漆黒の闇に浮かぶ月。その光は鋭く、寒さと共に見るものを射すくめる。月の姿を真っ直ぐに映す水面。その美しさに魅入られて凍った事にも気付かずに、その硬質な氷面に揺らめきすらしない月をまた映すのでしょう。
    過冷却のそれを思い浮かべました。月の光が届くと、それまで波立っていた水面が一瞬にして凍り、その冬の白さが辺りへと波及して行く。
    冬の月は興醒めなものなのでしょうか?あまりにも美しすぎて、恐ろしげという事なのか、あまりにも澄んだ光が照らし過ぎるのが良くないのか。静かな冬の月、美しいですよね。冷たい風に瞬く月のビブラート、まさにドビュッシーの「月の光」を思わせます。

    • 山川 信一 より:

      冬の晴れた風も弱い日の月こそ、夾雑物が無く、月本来の美しさを味わえますね。水を凍らせるほどの光、何と鋭く美しいことでしょう。
      ただ、我々が冬の月を美しく感じるのは、この歌の発見に寄るのかも知れませんね。自然は芸術を模倣すると言いますから。この歌を読んだ後では、冬の月が興醒めだなんて思えません。清少納言は、この歌を当然読んでいるはずなのに、どうしてこんなこと言ったのでしょう。これも、当時の超常識を狙ったからでしょうか。
      ドビッシーの『月の光』とこの歌を並べると、貫之の言う「ひとのこころ」(人の一つの心)を思わずにはいられません。

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