第二十五段  人の世のはかなさ

 飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り事去り、楽しび・悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人あらたまりぬ。桃李ものと言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬいにしへのやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。

飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば:『古今和歌集』雑下「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」を踏まえた表現。「し」は強意の副助詞。
時移り事去り、楽しび・悲しび行きかひて:『古今和歌集』仮名序「たとひ時移り事去り、楽しび悲しび行き交ふとも」を踏まえた表現。
桃李ものと言はねば:和漢朗詠集・雑・菅原文時「桃李不言春幾暮 煙霞無跡昔誰栖」(桃李もの言はず春幾ばくか暮れぬる。煙霞跡無し昔誰か栖まん)を踏まえた表現。

「飛鳥川の淵と瀬とが一定でないような世であるので、時が移り物事が去り、楽しみ・悲しみが行き交って、華やかであった辺りも人が住まない野原となり、変わらない住居は人が改まる。桃李はものを言わないので、誰と共に昔を語ろうか。まして、見たことのない古い時代の高貴であっただろう貴族の建物の跡こそがひどく無常を感じさせる。」

四季は再び巡ってくるが、人の世は滅び行くばかりである。人の世はあっけなく頼りない。そんな人の世の移り変わりの空しさを言う。読者の共感を誘う内容である。
だからこそ、人は古いものにあわれを感じるのだろう。たとえば、古色蒼然としたたたずまいに惹かれ、古寺を訪ねる。スカイツリーの新しさにも惹かれる一方で、東京タワーの古さを愛おしむ。
ここの表現は、古典を踏まえて書かれている。しかも、主題や題材は『方丈記』を下敷きにしている。やはり、結果として『徒然草』は、古典へのいざないになっている。

コメント

  1. すいわ より:

    人の世の儚さ、共感できます。今回は、これにはこう書いてある、と言った形は取らずに書き進めてますが、分かる人にはわかる、ということなのでしょうか。なるほど、残り続ける「古き良きもの」の価値を全面に出して古典へと導いていると思えます。

    • 山川 信一 より:

      『徒然草』は、高校生の古典入門として、いい教科書ではないでしょうか。常にこれを手元に置きながら、引用されていたり、暗示されていたりする作品を並行して読んでいく。こんな学習法も考えられます。

      • すいわ より:

        わかります、生徒、学生だった頃は読んでいる本に出てくる資料や本、片っ端から当たってしまいたくなって、眠る時間が惜しかったです。私のそれは学習なんて立派なものではなく、大元の本からとんでもなくかけ離れた分野にまで行き着いてしまう、ただ好奇心の赴くままと言ったものでした。それはそれで楽しかったのですが、今、先生の元で学べて自分には見えない景色を沢山見せて頂けて、嬉しく、有り難く思うばかりです。

        • 山川 信一 より:

          その思いは私も同じです。授業もコミュニケーションの一つです。やり取りが命です。それがここでは成り立っています。
          コミュニケーションのない授業ほど、空しいものはありません。授業とはまず以てコミュニケーションを学ぶところです。
          ところが、世の多くの授業は、それを忘れています。教師も生徒も。

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