第二百四十二段  三大欲

 とこしなへに違順に使はるる事は、ひとへに苦楽のためなり。楽といふは、好み愛する事なり。これを求むること、やむ時なし。楽欲(ぎょうよく)する所、一には名なり。名に二種あり。行跡と才芸との誉なり。二には色欲、三には味なり。万の願ひ、この三にはしかず。これ、顚倒の想よりおこりて、若干(そこばく)のわづらひあり。求めざらんにはしかじ。

顚倒の想:真理を逆さまに見る考え方。

「人が常に逆境・順境に支配されるのは、もっぱら苦を去り、楽を求めるためである。楽と言うのは、好み愛することである。人はこれを求むることをやめる時が無い。楽しみ欲する所のものは、第一には名誉である。名誉には二種類ある。行状が立派なのと才芸が優れているとの名誉である。第二には色欲、第三には食欲である。すべての願ひは、この三つの欲には及ばない。これは顚倒の考え方から起こって、そのために沢山の煩いが生じる。求めないに越したことがないだろう。」

前段の「如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄心迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。」を受けた内容である。「所願」を「楽欲する所」と言い換えて、詳しく説明している。欲望には、名誉欲・色欲・食欲があり、強さはこの順だと言う。なるほど、名誉欲が第一だというところが人間らしい。ただし、金銭欲もあるのではないか。それとも、金銭欲は、これらを得るための手段と位置付けているのか。いずれにせよ、この話も、欲望に支配されることは仏道修行の妨げになると、法師に向かって言っているのだろう。もっともこれは法師に限らない。誰であっても、名誉欲・色欲・食欲のままに生きるなら、碌な生き方ができそうにない。これらに囚われないように心掛けるべきであろう。ただし、人間の欲そのものを全否定することは、人間そのものを否定することに繋がってしまう。欲望を含めて人間なのだから、ただ否定するだけでは不十分だ。欲望とどう付き合うかを具体的に掘り下げて考えるべきである。

コメント

  1. すいわ より:

    確かに「仏道を目指す者の心得」ですね。欲望の度合いは人それぞれだし、満足の程度も人によって違う。仏道を志す事も一つの「欲」の形かもしれない。要はその望みなり欲求が自分のものであるかどうか、その満足の判断が自分のもので、周りに合わせてのものではない、ということがしっかり掴めていれば迷いは生じないと思います。お腹が一杯かどうかなんて本来なら自分にしかわからない事、他人に合わせることではない。あれが欲しい、これが欲しいだって、「みんなが持っているから」という理由で手に入れたのなら、直ぐに要らないものになりますよね。

    • 山川 信一 より:

      『徒然草』の内容は、読み手の反発を誘うものも多く含まれています。表現には、ある種の暴力性があります。それがほどよく含まれた表現こそ優れた表現と言えます。誰も傷付けないように書かれた文章など、あり得たとしても、何も伝わってこないでしょう。その意味で『徒然草』は優れた文章です。

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