《本歌取り》

題しらす 読人しらす 蓴蓴

いてわれをひとなとかめそおほふねのゆたのたゆたにものおもふころそ (508)

いで我を人な咎めそ大船の寛の揺蕩たに物思ふ頃ぞ

「さあ、私を人は咎めるな。大船のようにゆらゆらと揺れ動いて思いに耽る頃なのだ。」

「いで」は、感動詞で、相手を促す言葉。「な」は、呼応の副詞。終助詞「(咎め)そ」と呼応している。「咎めそ」で切れる。「大船の」は、「寛に」の枕詞。「ゆたのたゆたに」は、ゆったりと漂う意で、心が落ち着かない様をたとえる。「(頃)ぞ」は、終助詞で強い断定を表す。
さあ、ぼんやりしているからと言って私を人は傍から咎めてはいけません。私には私の事情がありまして、大船がゆらゆらと揺れるように心が落ち着かず思いに耽る頃合いなのです。ほら、ご存じの古歌にもあるでしょ、あんな感じなのですよ。
恋の物思いを人に咎められたことへの返答である。あなたにもこういう時期がお有りでしょと。大船にたとえているから、取り乱すほどではない、それでいて、落ち着かず心安まることもない、そんな心理状態にある時期なのである。「ゆたのたゆたに」は『万葉集』に出て来る「ゆたにたゆたに」が変化したもの。「ゆたに」は、形容動詞の連用形であるのに、「ゆたの」となっているのは、「ゆた」が名詞だと誤解されたのだろう。つまり、平安時代には『万葉集』の語句の一部が古語になっていたことがわかる。この歌は『万葉集』の「吾が心ゆたにたゆたに浮き蓴(ぬなは)辺にも沖にも寄りかつましじ」を踏まえている。いわば、本歌取りである。歌の奥行きが広がり、伝える情報量が増える。編集者は、その試みを評価している。

コメント

  1. まりりん より:

    恋の物思いを人から咎められても、開き直っている感じがします。仕方ないでしょ、それに大したことではないでしょ、と。

    • 山川 信一 より:

      「思ふ頃ぞ」と「頃」と言っています。相手の経験に訴えている感じがします。あなたもご存じの、あの「頃」なんですよと。

  2. すいわ より:

    思い悩んでと言うよりは夢心地でゆらゆら。きっと初めて快い返事をもらって浮かれているのですね。今まで「忍ぶ恋」を見て来たので咎める側の目線で見てしまいます。「昔の歌(万葉集)」からの歌、その歌を現代の私達が味わっているのは感慨深いです。
    万葉集の方の歌を見ると「蓴」これきっと蓴菜ですよね?粘着質なこの植物、一筋縄ではいかなそう。夢の中にいる間は心地よい。でも澄んでいるはずの水に囚われて身動きが取れなくなりそう。

    • 山川 信一 より:

      たとえ快い返事をもらったとしても、人からは咎められるのが恋なのでしょう。
      「ぬなは」は蓴菜のことです。ぬめぬめして、身動きを奪いそうです。でも、恋ならそれもいいのかも知れません。

      • すいわ より:

        まさに「恋の沼に溺れる」、夢の中のようにとろりとした浮遊感に、溺れていることにすら気付かないのでしょう。頭の中でフォスターの「夢路より」が流れました。

        • 山川 信一 より:

          フォスターの「夢路より」ですか。ゆったりとした調べに通じるところがありますね。まさに夢見ているのですね。幸せな気分も実は溺れ死ぬことと隣り合わせ。咎めたくもなりますね。

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