《筑紫への旅の別れ》

源のさねかつくしへゆあみむとてまかりけるに、山さきにてわかれをしみける所にてよめる しろめ

いのちたにこころにかなふものならはなにかわかれのかなしからまし (387)

命だに心に適ふ物ならば何か別の悲しからまし

「源實が筑紫へ温泉に浸かろうと言って下った時に、山崎で別れを惜しんだ所で詠んだ 白女
せめて命だけでも思い通りになるものならば、どうして別れが悲しいだろうか。」

「だに」は、副助詞で我慢の最小限を表す。「(なら)ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(何)か」は、係助詞で疑問・詠嘆を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「まし」は、反実仮想の助動詞「まし」の連体形。
源實が九州の筑紫の温泉に行くと言って下った。その折、京都から西国への水路の要衝である山崎で別れを惜しんで、白女が詠んだ。
人生は思い通りにならないことばかりでございます。お慕い申し上げるあなたも、私を残して遠い筑紫に行ってしまわれます。けれど、せめて私の命だけでも思い通りになるものならば、生きながらえてもう一度お目にかかりとうございます。ならば、この別れにも耐えられましょう。けれど、命も思いのままになりませんから、このお別れが耐えられぬ程悲しいのでございます。
遠い九州まで湯治に行くのだから、源實は体調が優れないこともあったのだろう。気楽な物見遊山の温泉旅行とばかりは言えない。ここでの別れが源實との永遠の別れになるかも知れない。それは源實の命にかかっている。しかし、白女は気を遣って、自らの命として詠んでいる。ただし、それでなくても、当時は九州までの旅は一大事であったようだ。大勢の人が山崎まで見送りに来ている。そこから、その辺りの事情が推察される。白女は教養のある高級遊女で、人々の気持ちを代表して歌を詠んだのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    命 という言葉が重いです。自分の命を言いながら、実は相手の命を思っている。地位のある方の出発ならば、山崎には何人もの見送りの人がいたことでしょう。作者は實を想っていたのわでしょうね。遊女の立場がこの時代どの程度だったのか分かりませんが、人前で余り表立ってお別れ出来なかった筈。今生の別れかも知れないのに、手も握れずに隅っこで遠慮がちに見送ったのでしょうか。作者の胸のうちを思うと、何だか切ないです。

    • 山川 信一 より:

      遠路九州に行くと言っても、所詮湯治ですから、命を持ち出すのはいささか大袈裟な気がしないでもありません。厳密に考えれば、あらゆる別れは今生の別れになる可能性があります。ですから、どんな別れでも、それにいくらでも感情を盛ることができます。そう考えると、遊女白女のこの歌は、別れの場面の演出のようにも思えます。白女は恋人を演じて、別れの場面を盛り上げているのでしょう。

      • まりりん より:

        なんだ、演出ですか。切ない別れを演じて楽しむ? まあ、それはそれで楽しそう。こういった別れの場面も含めて 旅の楽しみ なのですね。

        • 山川 信一 より:

          平安貴族たちは、人生の楽しみ方を知っていて、それを実践していたみたいですね。

  2. すいわ より:

    寿命を自分で好きなように操れるのなら、この別れを悲しむ必要なんてないのよね。(でも現実的には思い通りになんかならない。まして遠方への湯治、貴方はまた元気で戻って来てくれるのかしら。)送別の宴、女は白拍子か何かで宴席に呼ばれたのでしょうか。交通の要所、今までにも沢山の人を見送って来たのかもしれません。さらりと歌を詠んで送り出す。命さえ長らえればきっとまたお会いできるでしょうと匂わせる。こんな風に別れを惜しんでくれるのならまたここに戻ってこようと男に思わせる。教養も魅力の一つ。プロですね。

    • 山川 信一 より:

      白女は、大袈裟に男女の別れを演じたのでしょう。實は気分良く出発することができそうです。日本の遊女は伝統的に教養がないと勤まりません。西洋の女性と異なって、日本の女性は、政治的にも文化的にも立派に役割を果たしてきました。ささやかなこの歌もそれを思わせます。

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