《雪の山里》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた 壬生忠岑

しらゆきのふりてつもれるやまさとはすむひとさへやおもひきゆらむ (328)

白雪の降りて積もれる山里は住む人さへや思ひ消ゆらむ

「寛平御時后の宮の歌合の歌   壬生忠岑
白雪が降り積もっている山里は、住む人までも心が消えているのだろうか。」

「(積もれ)る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「人さへや」の「さへ」は、副助詞で添加を表す。「や」は、係助詞で疑問を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「(消ゆ)らむ」のは、現在推量の助動詞「らむ」の連体形。
白雪が降り積もっている山里は、雪に覆われ音もなくひっそりとしている。地上のものがすべて消えてしまったかのようだ。家々は雪に埋め尽くされ、竈の火も消えているのか、煙も立っていない。そこに住む人々までも意気消沈してしまっているのだろうか。
雪に覆い尽くされた山里の有様を詠んでいる。「住む人さへや思ひ消ゆらむ」の「さへ」は、山里の家々が視界から消えることを前提として言っている。それに加えて、そこに住む人々の心までも消えると言うのだ。「消ゆ」を使っているのは、文字通り雪に覆われて消えて無くなることを意味しているのだが、同時に「思ひ」からの連想である。「思ひ」という心の火が消えると言うのである。この歌は、作者の想像の産物と捉えることができる。その場合、その有様を「山里は、今頃は・・・だろうなあ」と外側から眺めていることになる。一方、前の歌と合わせて二首をセットにして読むこともできる。自分を「住む人」として、自分の心を思いやっていると捉えるのだ。ならば、前の歌に於ける、友に取り残された自身の思いを詠んだことになる。

コメント

  1. まりりん より:

    雪は、家や木々や全ての物を覆い尽くし、人の心にまでも降り積もって見えなくしてしまう。
    前の歌とセットだとすると、友が去ってしまって寂しさと憂いで心が凍えて、抜け殻のようになってしまった様子が想像できます。
    この歌を鑑賞していたら、雪は全ての物を消してしまう魔物のような気がしてきました。家や木々や川や、、視界を消し、音も吸収してしまう。そして人の心も、命も。

    • 山川 信一 より:

      心には「思ひ」という火が燃えているものと捉えています。ところが、雪はそれを消してしまうのですね。火の消えた心は、想像しただけでゾッとします。「魔物」のような気がすることに共感できます。

  2. すいわ より:

    単体でこの歌を見ると、山里を一面の雪が覆い尽くし、そこに住む人の生活までも凍りつかせる冬の様子、と言ったところでしょうか。
    前の歌を受けてのものと思うとまた違った顔を見せますね。
    便りもよこさぬ友、ならば訪ねてみよう。そして出向いた麓の山里。吉野の山に続くこの山里までもすっぽりと覆い尽くした雪。人々もこの雪にはなす術もなく、冬籠りしてまるで眠りについたようだ。ここでさへもこんなに厳しい寒さ、寂寥感。なのに友は山へと分け入った。並々ならぬ決意が無ければ出来ぬ事。追ってはならぬのだ。みよしのはどこまでも尊く、真白な神々しさは覚悟の無いものを頑なに退ける。友への執着心も相手の為でなく、自分を満足させる為。そんな思いも雪は飲み込んで、全てを平らに清浄に均して行く。一時の情熱を真っ白な雪が鎮静させ、冷静さを取り戻させる。友への思いが消えることは無い、でも、思えばこそ自分の欲求は雪の下に沈めるのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      素晴らしい鑑賞です。「友に取り残された自身の思い」が具体的に表現されています。まるで短編小説を読んでいるようです。芸術は循環し繋がっていくものですね。

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