《春を待つ心》

雪の木にふりかかれりけるをよめる つらゆき

ふゆこもりおもひかけぬをこのまよりはなとみるまてゆきそふりける (331)

冬籠もり思ひかけぬを木の間より花と見るまで雪ぞ降りける

「雪が木に降りかかっているのを詠んだ 貫之
木は冬籠もりの時で、思いも掛けなかったのに、木の間をとおして花と見るまでに雪が降ることだなあ。」

「思ひかけぬを」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「を」は接続助詞で逆接を表す。「(雪)ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「(降り)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
雪が木に降りかかっているのに心動かされて、詠んだのだ。今は植物が営みを止めている冬である。だから思いも掛けなかったのに、木の間を通して、花が散っていると見るほどに雪が降っている。
この歌も前の深養父の歌同様、春を待ち望む心を詠んでいる。春を待ち望む心が雪を花に見せてしまうのである。どちらの歌の表現も、そう見たいという実感を述べたものであり、決して大袈裟なたとえではない。ところが、深養父の表現はやや強すぎる。そのため、ややもすると、技巧のための技巧と受け取られ兼ねない。真の心から生まれたにせよ、作り物と取られないためには、どう表現するかを別に考えねばならない。表現は読み手が有ってのものだからだ。貫之は、ぎりぎりのところで表現を抑えている。これは、深養父の歌に対して、手本を見せたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    深養父の歌は確かに、降る雪そのものに対する思いと春の発見を歌に詠んで伝えたい、という気持ちはわかったのですが、対象が空の上、と実感しづらいせいで春待ちの思いの強さゆえの夢想のように捉えてしまいました。
    それに比べると、貫之の歌は誰もが皆、普通に目にする当たり前の実景の中での発見。なるほど共感しやすいです。

    • 山川 信一 より:

      『十六夜日記』の作者阿仏尼が四季を詠む歌に絵空事を詠むのは邪道だと言っています。まるで清原深養父のこの歌について言っているかのように。こうした考えにも、貫之の姿勢の影響もあったのでしょう。しかし、深養父にも、いい味わいがあります。貫之もそれを認めていないわけではありません。だから、ここに載せたのです。ただし、歌がこの方向に行きすぎないように配慮しつつ。

  2. まりりん より:

    すっかり色彩のなくなった冬木立。雪が降って枝に積もり、降り続く雪がその木の間から見える様が、まるで散っていく花びらのよう。まさに 雪の花 ですね。

    前の歌は、表現が少々大げさなのでしょうか。確かにこの貫之の歌の方が馴染みやすい気もしますが、私は深養父の歌の方が神秘的で好きです。

    • 山川 信一 より:

      貫之の考えを認めるかどうか、あるいは、好き嫌いは個人の自由です。私も、深養父の歌が好きです。雪ばかり降っていると、こう思いたくもなりますよね。

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