《春への思い》

ゆきのふりけるをよみける きよはらのふかやふ

ふゆなからそらよりはなのちりくるはくものあなたははるにやあるらむ (330)

冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ

「雪が降ったのを詠んだ  清原深養父
冬であるのに空から花が散ってくるのは雲の彼方は春であるのだろうか。」

「(冬)ながら」は接続助詞。「春にやあるらむ」の「に」は、格助詞。「や」は係助詞で疑問を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「らむ」は、原因理由の推量の助動詞「らむ」の連体形。
雪が降ったのを見て思ったことを詠んだ。今は冬であるのに、雪が空から花びらのように降ってくる。空は一面に雲に覆われている。と言うことは、雲の彼方に春があって、雪はそこから降ってくるのではないだろうか。
雪が降ってきた。今は冬のまっただ中である。春はまだまだ遠い。しかし、春が恋しくてならない。どこかに春はないのかと思う。すると、降る雪が散る花びらのように見えてくる。雪をそう思うことにする。すると、雪が降ってくる雲の彼方に春があることに思い当たる。無理を承知でこう思わずにはいられないほど春を待ち望む切実な心を表す。
詞書に「ゆきのふりけるをよみける」とある。これは、前の歌の詞書の「雪のふれるを見てよめる」と対照的である。つまり、「ける」を使うことによって、降ることと詠むことに心が強く動かされたことを表している。

コメント

  1. まりりん より:

    「雪の降りけるをよみける」と「雪の降れるをみてよめる」?
    前者が雪の降っている様子を他の何かに例えるのに対して、後者は雪が降っている様子を見ながら想像したこと、という理解でよろしいでしょうか?

    雪を花に例えた歌は(324)の 白雪のー も同様でしたね。これも、冷たい雪を冬に咲く花と前向きに捉えていることに加えて、春を待ち望む気持ちが伝わってきます。雲の上はもう春。地上よりも季節がすすんでいるのですね。四次元空間を彷徨って地上に落ちてきた雪の花。神秘的です。

    • 山川 信一 より:

      私はこの場合の「ける」の有る無しを次のように捉えています。「ける」は詠嘆の助動詞「けり」の連体形です。ですから、これは書き手の強い感情を表しています。ここでは、単に歌の条件を表すだけでなく、雪が降ることとそれに対して歌をよむことに強く自分の心が動いたことを伝えているのです。つまり、作者は、雲の上の春を信じたい気持ちになった訳を強く訴えているのです。

  2. すいわ より:

    「冬ながら」、ネガティブな印象なのですね、冬は。そんな中、少しでも心の明るくなる事を探すのですね。
    頬に落ちてきた雪。冷たい!と手を当てて、その掌を見るとそこに一片の雪が舞い降りる。あっという間に溶け消えてしまうけれど、それはまるで花びらのようで、六花に導かれ空を見上げると、そこには鈍色の雲。それでもきっと雲に閉ざされたその上には春が訪れていて、雪の花は零れ落ちて来るのではないだろうか?冬の、溶け消える雪のように儚い春の幻。

    • 山川 信一 より:

      雲の彼方の春は、奇を衒ったたとえではなく、実感=希望を表しています。冬は誰にとっても、ネガティブなもの。だから、どこかに春を見つけたいと願います。すると、降る雪は、見方によれば、散る花に見えます。ならば、雪雲の彼方に春がある。そう考えるのは筋が通っています。読者をこうして共感を呼ぶように巧みに導いていきます。

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