《男の気遣い》

題しらす よみ人しらす

たまくしけあけはきみかなたちぬへみよふかくこしをひとみけむかも (642)

玉櫛笥明けば君が名立ちぬべみ夜深く来しを人見けむかも

「題知らず 詠み人知らず
夜が明けたらあなたの浮き名が立つに違いないから夜遅く帰って来たのを人が見たのだろうかなあ。」

「玉櫛笥」は、櫛などを入れる箱の美称で、「明けば」に掛かる枕詞。「(明け)ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(立ち)ぬべみ」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「べみ」は連語。「べ」は推量の助動詞「べし」の語幹で、「み」は原因理由を表す接尾辞。「(来)し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「(見)けむかも」の「けむ」は、過去推量の助動詞「けむ」の終止形。「かも」は、終助詞で詠嘆を表す。
あなたの家を出る前に夜が明けたら、人に見られて悪い噂が立つに違いありません。だから、あなたの所に少しでも長くいたい心を抑えて、暁を待たずに夜遅く帰ってきました。それなのに、人が見たのでしょうなあ。早くも噂を立てられてしまいました。思い通りに行かずすみません。でも、私の心遣いはわかってくださいね。
男は、宵に女の所に行き、夜中を共に過ごし、夜明け前の暁に帰って来るのが恋の決まり事である。しかし、作者は、相手の女を気遣い、噂を気にして夜中に帰ってきた。それなのに、噂が立ってしまった。この歌は、それに対する言い訳である。しかし、言い訳しつつも、自誠意誠意をアピールしている。こうなったら、開き直ってしまいましょうかと持ち掛けているのだろうか。あるいは、実は女が気に入らず、夜中に帰ってきたことへの取り繕いだろうか。
後朝の歌は、女への気遣いの歌である。気遣いには、様々な事情が有る。この歌の場合は何だろう。いろいろ想像される。意味深長である。編集者は、この歌がこうして読み手の想像力を刺激する点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    これはきっと、敢えて早く帰って自分で噂を流して「気遣いのできる男」を演出しているように思えます。「玉匣を開ける」を冒頭に持ってくる辺り、関係を明かしたい意図を感じます。
    この歌、後朝の歌ですか?だとしたら尚のこと噂が立っているはずもなく、噂になって関係があると皆に認めてもらいたい事を表明しているのではと思いました。

    • 山川 信一 より:

      そんな風にも考えられますね。恋のためならなんでもします。噂だって利用する。でも、恋は忍ぶものですから、自分から流すだろうかという疑問も残ります。後朝の歌でも、帰ってきた途端に、「あの女の家から出て来たのを見ましたぞ。やりますなあ!」とでも言われたのかも知れません。ならば、その事実は利用します。

  2. まりりん より:

    ばれないように夜明け前に帰ったのに、帰るところを警護の者に見られてしまった。その者は何とかつての恋のライバル。してやったりと直ぐさま噂を流された。噂を流せば、もう逢いには来られまいと思ったであろう。でも、そんな事で自分はめげない。忍ぶ恋では無くなってしまったけれど、貴女に逢わずにはいられません。。
    と、強い愛情を訴えているように思いましたが、、

    ああ、自分の想像力の何と貧相なことか。。

    • 山川 信一 より:

      歌は短いが故にかえって想像力を刺激します。紫式部もそうして『源氏物語』を書きました。まりりんさんも「貧相」だなんて言わないで、自分なりの世界を楽しんでください。めざせ、「紫式部」!

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