《暁の郭公》

題しらす よみ人しらす

ほとときすゆめかうつつかあさつゆのおきてわかれしあかつきのこゑ (641)

郭公夢か現か朝露の起きて別れし暁の声

「題知らず 詠み人知らず
郭公は夢なのか現実なのか。朝露が置く朝に起きて別れた暁の声は。」

「朝露のおきて」の「朝露の」は、「おきて」に掛かる枕詞。「朝露が置きて」と「朝起きて」が掛かっている。「(夢)か(現)か」の「か」は、いずれも終助詞で詠嘆を伴った疑問を表す。「(別れ)し」は、過去の助動詞「き」の連体形。
郭公は夢の中で聞いたのでしょうか、それとも、目が覚めていて聞いたのでしょうか。私には判断しかねます。なぜなら、別れの悲しみで心が乱れていたからです。朝露が置く朝に朝露のような涙をこぼして起きました。あなたにお別れした暁に聞いた郭公の声は、私の悲しみの叫びのようにも思えます。
作者は、別れの悲しみがどれほどのものであるかを女に伝えている。それを通して自分がいかに女を愛しているかを伝えるためである。それは、もう訪ねてきてくれないのではないかという女の不安を和らげるためでもある。女は待っているしかないので、男以上に相手の心が離れることが不安であるからだ。
この歌も後朝の歌である。「別れし」とあるから、家に帰ってきてから贈ったことがわかる。この歌では「暁」という語が出て来る。東雲の歌の次に出て来るので、暁の方がわずかに後の時間帯なのだろう。その別れわずかな時間に於ける心理を扱っている。郭公の声がリアリティを生み出している。編集者はその細やかな着眼を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    郭公が鳴いている。別れの朝を反芻する。あの時、聞いたと思った郭公の鳴き声は夢だったのだろうか。あなたとの素晴らしい夢のような時を過ごした。目覚めてしまったら、いよいよ別れの暁を迎える。置く露はさながら私の涙のようで。そうだとしたらあの鳴き声はやはり確かなもの。私の辛い気持ちを郭公は歌ったのではないのか?夢と現の間を揺蕩う、朝の気分が上手く表現されていますね。

    • 山川 信一 より:

      「夢と現の間を揺蕩う、朝の気分」(別れの朝の心理)を繊細に捉え表現することで、相手に思いの深さを伝えているのでしょうね。いい加減な気持ちではこうは詠めませんから。

  2. まりりん より:

    まどろみの中で暁に聞いた郭公の鳴き声が、私の悲しみの叫び、泣き声のようだと。
    前の歌でも書きましたが、後朝の歌はその微妙な時間経過に伴う心情の変化が繊細で、興味深いです。東雲、暁と来たから、、つぎは曙かな…?

    • 山川 信一 より:

      この歌は、前の歌の返歌のようにも思えますね。あなたが鶏なら、私は郭公ですと言っているような。二つの歌は、鳥繋がりでした。
      夜は、「宵→夜中→(東雲)→暁→曙→朝」と変化するので、曙が出てきてもよさそうですね。

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