《春を待ち望む心》

ゆきのふりけるを見てよめる きのとものり

ゆきふれはきことにはなそさきにけるいつれをうめとわきてをらまし (337)

雪降れば木毎に花ぞ咲きにけるいづれを梅と分きて折らまし

「雪が降ったのを見て詠んだ  紀友則
雪が降ると、木毎に花が咲いたことだなあ。一体どれを梅と区別して折ろうか。」

「雪降れば」の「ば」は、接続助詞で偶然的条件を表す。「(花)ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「咲きにける」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。ここで切れる。「(折ら)まし」は、反実仮想の助動詞「まし」の連体形。
雪が降ってきた。一本一本の木に花が咲いて、どの木も梅になってしまった。もし折れと言われたら、一体どの木を本物の梅と区別して折ろうか。無理だろうなあ。
雪が降ると、どの木も花が咲いたようで、まるでどの木も梅の木になったように見えると言う。その理由は、次の通りだ。梅の花が既に咲き始め、春が来たと思ったのに、雪が降り、再び冬に逆戻りする。しかし、それは認めたくない。だから、このように見てしまうのだ。人は物事を見たいように見るものだから。
すなわち、作者はこう言うことで、春を待ち望む心を表そうとしたのである。その心が雪をこんな風に見せてしまうのだと。ちなみに、漢字も「木」「毎」を合わせれば、「梅」になるという洒落心も伺える。

コメント

  1. まりりん より:

    この歌と前の3つ  334-337 は、同じ情景を詠んでいますよね。
    前の3つでは、雪は 雪 でした。だから温度感が冷たかった。一方この歌では、枝に積もった雪を花に見立てることで春の要素を取り入れて、春を待ち焦がれる気持ちを表している。そのせいか、体感温度が若干高く感じられます。

    • 山川 信一 より:

      いいえ、334-336の雪も梅の花に見立てられています。ただ、《雪⇔梅の花》と捉えられているので、梅の花がクローズアップされます。それに対して、337は、雪を梅の花と見る理由に焦点を当てています。そのため、春という季節が浮かび上がってくるのです。暖かさを感じるのは、そのためでしょう。

  2. すいわ より:

    「木」「毎」で「梅」、まさに「分きて」梅の文字を歌に折り込んだのですね、面白い!さて、梅はどこかな?と。梅が咲き始めたというのに、また雪が木々に降り積もって冬景色に。どの木が梅の木だか見分けがつかないほどだ。いやいや、春が訪れているのだ、これは一面の梅園と思えば心華やぐではないか、、。雪を悪者にしないおおらかさを感じさせます。

    • 山川 信一 より:

      和歌は、抒情歌ですが、情を読むのに知を排除しないのが『古今和歌集』ですね。「雪を悪者にしないおおらかさ」は、春がもうそこに来ているという余裕・安心感から生まれているのでしょう。こう言った季節感も普遍的ですね。

タイトルとURLをコピーしました