《逢う人次第》

題しらす 凡河内みつね

なかしともおもひそはてぬむかしよりあふひとからのあきのよなれは (636)

長しとも思ひぞ果てぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば

「題知らず 凡河内躬恒
長いとも思い切れない。昔から逢う人次第の秋の夜なので。」

「(思ひ)ぞ(果て)ぬ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。ここで切れる。「からの」の「から」は、格助詞で名詞のように使っている。「の」は、格助詞で連体修飾を表している。「なれば」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。倒置になっている。
確かに、一般に秋の夜は長いと言われていますが、よくよく考えてみると、必ずしも長いとも思い切れませんね。なぜなら、昔から時間の長さは逢う人次第であって、好きな人と逢っていれば短く感じるし、嫌な人と逢っていれば長く感じるものですからね。
この歌は、前の歌の返歌のようになっている。作者は、前の歌の真意がわからないふりをして、表面上の意味に答えている。長い秋も恋人と逢うから短いと一概には思えない、結局、逢う人次第なのだと言う。つまり、その実、「あなたは、男のせいにするけれど、事情は男も女も変わりませんよ。女次第でもあるのですよ。」と切り返したのである。
二つの歌は、独立して作られたのかも知れない。しかし、並べることで、女と男の当意即妙の贈答にも思える。したがって、実際の恋の場面が想像される。編集者はそれを意図したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    確かに前の歌の返歌のように読めますね。本当にそうだったとしたら、作者は してやったり! と爽快なことでしょう。まさに恋は駆け引き。知恵比べみたいです。昔の美人の条件のひとつが和歌が上手な事だったそうですが、何となくわかる気がします。。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、事実、返歌だったのかも知れません。と言うのは、作者の躬恒は編集者の一人ですから。小町の歌を収録する際に返歌を作って、そのお手本を示してみせたのでしょう。そんな気がしてきました。『古今和歌集』は、遊び心満載の歌集ですからね。

  2. すいわ より:

    ただ肘鉄を食らうだけではなく鷹揚に返すゆとり、爽快なテニスのラリーを見ているような気分になります。
    歌集、どの作品もそうなのでしょうけれど、ただ秀逸な作品群というのでなく、編集者の腕前で一つの物語を紡いでいるのだと今更ながら気付かされて、もったいない事をして来たなぁと思わずにいられません。「一つの作品」として読む事を教えて頂き嬉しく、有り難く思うばかりです。

    • 山川 信一 より:

      もちろん、どの歌も独立性は有しているでしょう。しかし、必ず何らかの事情の中にあります。短歌の並びもその一つです。スポット読みではもったいないですね。

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