《夜明けの別れ》

題しらす よみ人しらす

こひこひてまれにこよひそあふさかのゆふつけとりはなかすもあらなむ (634)

恋ひ恋ひて稀に今宵ぞ逢坂の木綿付け鳥は鳴かずもあらなむ

「題知らず 詠み人知らず
恋して恋して稀に今夜逢うのだ。逢坂の鶏は鳴かないで欲しい。」

「今宵ぞ相坂の」の「ぞ」は、係助詞で強調を表す。「逢坂」に地名と「逢ふ」が掛かっている。そのため、「ぞ」の結びは流れた。「(鳴か)ずも」の「ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「も」は、係助詞で強調を表す。「(あら)なむ」は、終助詞で願望を表す。
恋して恋してやっと珍しくあなたに今夜お逢いできます。だから、二人が逢う逢坂の関の鶏は鳴かないで欲しい。鳴けば夜が明けるし、帰らねばなりませんから。あなたにお逢いする前から別れのことが気になってしまう私です。
稀にしか逢うことができない恋人に逢瀬の時間が自分にどれほど貴重なものかを伝える。逢瀬は夜なされる。男は宵に女の所に行き、夜中を共に過ごし、夜が明ければ帰らねばならない。ただでさえ、短い時間しか逢えない。それなのに、二人は滅多に逢えないのだ。逢瀬の喜びが大きいほど別れは辛いだろう。逢う前からそれに耐える覚悟が要る。しかも、この思いは作者だけのものではあるまい。恋人の女も同じだ。だから、こう言うことで女を慰めてもいるのである。
ここからは、逢瀬の後の別れが主題になる。逢瀬そのものは歌にはならない。この歌は、「木綿付け鳥は鳴かずもあらなむ」によって、恋の過程と別れの辛さが巧みに表現されている。また、「逢坂」に「逢ふ」が掛かるために「ぞ」の結びが流れたのに、意味は伝わる。洗練された表現である。編集者は、こうした点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    この歌、会う前に彼女へ贈った歌なのでしょうか。
    待ちに待った逢瀬の日、恋しい人にやっと逢える。相愛の仲。会いたい思いは言わずもがな、でも会えば会ったで必ず別れの時がやって来る。叶わぬ事と分かっていても時を止めてしまいたい、、気持ちは同じ、彼女の口から嘆きの言葉が溢れる前にこの歌を。私がどんなにあなたと離れ難いか知っていてほしい。
    536番の歌でも逢坂の関、木綿付け鳥、歌われていました。この言葉、どちらも別れを象徴しますがせめて「言葉」の形の中にお互いを結び合う印を留めさせたい気持ちからこの文字を当てたのだろうかと思いました。

    • 山川 信一 より:

      「会うは別れの初めなり」と言います。会えば必ず別れが来きます。別れは辛く悲しい。会うことは、新たな悲しみを背負うことでもあります。しかし、ならば会わなければいいとはなりません。人はそれでも誰かに会わずにいられません。それが恋人と逢うことならば、尚更のことです。それは逢いても同じこと。恋人に対するこういう気遣いも愛の表れですね。

    • まりりん より:

      木綿付け鳥は、文字だけ当てると夕告げ鳥となって、夕方鳴く鳥なのかと思えましたが、夜明けに鳴くのですね。もし本当に夕方鳴くなら、これから恋人に逢える嬉しい時間なわけで、全く違う歌になるかと思い。。

      • 山川 信一 より:

        すいわさんも指摘していましたが、「木綿付け鳥」は、536番に出てきました。「逢坂の木綿付け鳥も我がごとく人や恋しき音のみ鳴くらむ」これは、鶏のことなのです。四境という祭の際、鶏に木綿で作った襷を掛けて四境の関に放ったという故事によります。

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