《恋の悲しみ》

題しらす みつね

われのみそかなしかりけるひこほしもあはてすくせるとししなけれは (612)

我のみぞ悲しかりける彦星も逢はで過ぐせる年し無ければ

「題知らず 躬恒
私ばかりが悲しいことだなあ。彦星も逢わないで過ごしている年は無いのだから。」

「のみぞ」の「のみ」は、副助詞で限定を表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。ここで切れ、以下は倒置になっている。「逢はで」の「で」は、打消を伴った接続助詞。「(過ぐせ)る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「(年)し」は、副助詞で強意を表す。「(無けれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。
世の中で私ばかりがこんなに寂しい思いをしていることに気づきました。彦星が織女に逢えないことは悲恋として同情されていますが、彦星だって織女に一年に一度は逢えるではないですか。織女に一度も逢えずに過ごしている年は無いのですから、彦星はそれを頼りに生きて行かれます。それに対して、逢える機会が全く与えられていない私よりずっとましです。私はどうしたらいいのでしょうか。悲しくて悲しくてなりません。
自分の恋人に逢えない悲しみは、悲恋の主人公として知られている彦星以上なのだと訴えている。一種の誇張法である。また、相手も彦星の悲しみならわかるだろうから、それを踏まえれば、自分の悲しみもわかってもらえるはずという類推法でもある。既知のことに託して未知のことを伝えるのは効果的な方法である。
彦星と織女の悲恋を詠んだ歌は多い。それに対してこの歌は、その悲恋に託して自らの恋を詠んでいる。その目の付け所に独創性がある。なるほど、説得力がある。編集者はその点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    誰もが知っているラブストーリーとの比較、彦星と比べるのだから思い人は暗に永遠のヒロイン織女と見立てられていて、前の歌同様、持ち上げますね。既存の物語、でも、歌を詠んだ本人の物語は始まってもいない。悲嘆に暮れていると見せて、詠み手は物語をここから始める。恋の主導権を握り描き始めるのですね。

    • 山川 信一 より:

      この手があったかと思わせる歌ですね。相手を物語のヒロインに仕立て上げ、恋の世界に引き込んでいく。応用にしたくなりますね。でも、実際は難しそうです。

  2. まりりん より:

    彦星と織女のお話、悲しいですよね。その神秘性が余計に悲しみを盛り立てます。夏の夜空を見上げて天の川の向こうと此方。作者にも、恋の弊害となるものがあったのか、想像してしまいます。

    • 山川 信一 より:

      作者にとっての「恋の障害」は、恋人が逢ってくれないことです。彦星と織女のような障害がある訳では無いのだから、逢う逢わないはあなたの意志だけですと、迫っています。

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