《熟練の大人の歌》

題しらす とものり

ことにいてていはぬはかりそみなせかはしたにかよひてこひしきものを (607)

言に出でて言はぬばかりぞ水無瀬川下に通ひて恋しきものを

「題知らず 友則
言葉に出して言わないだけだ。水無瀬川のように心中であなたに通って恋しいのになあ。」

「(言わ)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「ばかりぞ」の「ばかり」は、副助詞で限定を表す。「ぞ」は、終助詞で強い断定を表す。「水無瀬川」は、「下に通ひて」の枕詞。「ものを」は、終助詞で詠嘆を表す。
私のあなたへの恋は、口に出して言わないだけなのですよ。水が伏流となって地下を流れる川のように、心の中で思いがあなたの方に通って、こんなにも恋しいのになあ。わかっていただけていないようですね。これほど思っているのに、誤解されるは辛いものです。
作者は、今の自分を表すのに「水無瀬川」という的確な事物を選んでいる。「水無瀬川」は枕詞としてだけでなく、その意味も生かし、「水無瀬川」が伏流となって地下を音も立てずに流れる様を心のたとえにも使っている。また、穏やかな読み口によって、抵抗無く受け入れてもらえるようにしている。
自分の恋を「水無瀬川」にたとえるのは、やや新鮮味に欠けるけれど、納得のいく無理の無い表現である。歌の調べも滑らかでそつがない。贈答歌としては、これくらい抑えた方が抵抗無く受け入れてもらえるに違いない。この歌は、大人の熟練の技によって作られている。いかにも友則らしい。編集者は、この点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    いつも通り、上手いですよね。歌の「水無瀬川」のように気付かぬ間に心に流れ込んで来るよう。あなたが気付かないだけと言ってはいても、相手を傷つけない。本当に言葉足らずの人がこんな歌、詠めないでしょう。大人の駆け引きですね。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、この歌自体が「水無瀬川」なのですね。言い得ています。まさに大人の歌ですね。

  2. まりりん より:

    私の思いは口に出さないから気づかれることはありません。でも、音もなく地下を流れる水のように、私は絶えず貴女を思っているのですよ。
    「見返り」を求めていないですよね。自分の思いを気付いてもらえなくても恨み言もないし、確かに受け入れ易いです。

    • 山川 信一 より:

      愛は求めれば得られるものではありませんね。相手の心がそれに向くように働きかけることはできても、強制することはできません。大人と若者に違いはその認識の違いにありそうです。

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