《恋歌の王道》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた 紀つらゆき

きみこふるなみたしなくはからころもむねのあたりはいろもえなまし (572)

君恋ふる涙し無くば唐衣胸の辺りは色燃えなまし

「寛平御時の后の宮の歌合の歌 紀貫之
君を恋う涙が無かったら、唐衣を着る胸の辺りは赤く燃えてしまうだろう。」

「(涙)し」は、副助詞で強意を表す。「(無く)ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(燃え)なまし」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「まし」は、反実仮想の助動詞の終止形。
あなたを恋しく思うあまりに流れる涙。もしこれが無かったら、唐衣を着る胸の辺りは、あなたへの「思ひ」という火によって赤く燃えてしまうでしょう。しかし、実際には涙によって消されてそうならずに済んでいます。これはこれで幸いではありますが、不幸なことに、私の思いのほどがあなたに見えなくなってしまいました。
「唐衣」は、一般に女性の十二単の上着を表すことが多いが、ここではそのイメージを借りつつ、作者自身の衣服を表す。また、省略されている「着る」に掛かる枕詞としての役割も果たしている。さらに、「色が燃え」ると響き合わせて、色鮮やかな優雅な歌に仕立て上げている。作者は、表現の巧みさによって自分の人となりを伝え、女心を動かそうとしている。恋歌の王道を行く歌である。
「寛平御時の后の宮の歌合の歌」から引かれた歌の最後を飾る。「涙」「唐衣」「色」という名詞を、「ば」「は」「まし」という助詞・助動詞をを効果的に用い、スマートですっきりした歌の形を創り上げている。また、涙が唐衣の火を消すという発想に独創性がある。編集者は、これこそあるべき恋歌の表現だと考えていたのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    「寛平御時后の宮の歌合の歌」って、たくさんありますね。実際は、古今和歌集に採用された以外にもっとたくさんあるのですよね。何となく年始の「歌会初め」のような光景を想像していましたが、もっとずっと規模が大きかったのでしょうか。

    この歌では、涙が火消しの役割を担っているところが新鮮です。恋の苦しみを歌ってるはずですが、目に浮かぶ光景は本当に色鮮やかで優雅、高貴なイメージで素敵です。この時、作者は実際に恋に苦しんでいたわけではないように感じます。

    • 山川 信一 より:

      『日本国語辞典』には次のようにあります。「寛平元~五年(八八九‐八九三)の間に、光孝天皇の后(当時皇太夫人)班子女王が主催。春、夏、秋、冬、恋五題の各二〇番計一〇〇番二〇〇首(現存一九二首)。」当代の有数の歌人が歌の優劣を競ったようです。選りすぐりの歌が集まったに違いありません。『古今和歌集』では、それが更に精選されて載っています。
      確かに、歌からは余裕が感じられますね。相手がどう返すかを楽しんでいるかのようです。

  2. すいわ より:

    いつも仮名文字の歌を真っ先に読んで頭に戻って詞書から解説まで読み進めています。今回の歌、「あなたを思い流す涙が無ければ、この鮮やかな唐衣のように胸にともる火にこの身は燃えてしまうでしょう」と女性が詠んだのだと思いました。貫之なのですね、してやられました。伊勢物語を彷彿とします。「唐衣」で鮮やかな緋色に支配され思いの炎とリンク、涙を流して火消しはされたと言うけれど、燃えるイメージは残り詠み手の悲しみだけが印象づけられる。
    恋する人を思い涙する、この涙が無かったら胸を騒つかせるこの思いは燃える火となって露になってしまう。では恋の火は涙で消えたのか?消えるはずがない。この思いを伝えたい、でも明かせない。この裏腹な思い、詠み手の心は唐衣の「緋(火)」を纏い「涙(水)」を流す。貫之恐るべし。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、貫之が女の身になって詠んだと解すべきです。すいわさんのコメントを読んでそう思いました。まさに「唐衣」がそう読めというサインだったのです。初めからこの言葉に引っかかっていました。私こそ貫之にしてやられました。恋の火を燃やし続ける女が見えてきます。

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