《夢が怖い》

題しらす 読人しらす

こひしねとするわさならしうはたまのよるはすからにゆめにみえつつ (526)

恋ひ死ねとする業ならしむばたまの夜はすがらに夢に見えつつ

「恋い死ねとする行いであるらしい。夜はずっと夢に見え続けて。」

「ならし」は、連語。「な」は、断定の助動詞「なり」の連体形「なる」の変化した形。「らし」は、推定の助動詞「らし」の終止形。ここで切れる。以下は推定の根拠になっている。「むばたまの」は、「夜」に掛かる枕詞。「(見え)つつ」は、接続助詞で反復継続を表す。
せめて寝ている間だけでもあなたのことを忘れられればいいものを、どうも夢はこの私に恋い死にしろという行いであるらしい。なぜなら、夜は夜通しあなたを夢に見続けるのですから。寝ても覚めてもあなたへの恋しさで安らうことができません。もう恋い死にしてしまいそうです。
〈人は恋しい人に現実に逢えなければせめて夢で逢いたいと願うものだ。〉一般にこう信じられている。けれど、作者はそれに次のように反論している。それは勝手な思い込みに過ぎない、夢で逢えることが救いになるとは限らない、むしろ、寝ている間さえ恋人のことが忘れられず苦しさが増すと言うのである。なるほど、そう言われれば、この方が現実的である。夢が夢であることを感じさせず、かつその夢が心地よいとは限らないからである。むしろ、そんな夢は稀だろう。夢が癒やしてくれるというのは、都合のいい幻想に過ぎない。逢えない現実を思い知らされる場合が多い。「むばたまの」という枕詞が利いている。夜をいっそう真っ黒に感じさせている。作者は、そんなお先真っ暗な夜に脅えていることが伝わってくる。夢で逢えることが素敵なこととは限らない。それは甘い思い込みである。編集者は、こうした常識に囚われない作者の分析力を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「来ないあなたに夢でせめて逢えたら」と思いますね。でも夢の中の思い人も振り向いてくれないとなると夢の中でまで追い続けなくてはならない。寝ても覚めてもあなたを思っている、夢の中を揺蕩うような心地よさの中でなく、追い縋って伸ばした手がどんなにしても届かない息もつけなくなるような苦しさ。あなたには伝わる?という事なのか?と最初思いました。
    むしろ夢の中でもごく普通の日常が繰り返されてその境目の無さが苦しい、という事でしょうか。煮え切らない関係。追い縋ってグズグズな方が感情を外に出せる分まだマシなのかもしれませんね。確かに面白い着眼点だけれど、この歌をもらって会いに行こうと思えるかはまた別ですね。

    • 山川 信一 より:

      確かにこの歌で相手の心を動かせるかと言うといささか心もとないですね。単なるぼやきとも思えてきます。でも、夢に多大な期待を掛けても思い通りには行かないというのは説得力がありますよね。『古今和歌集』は、情緒に溺れません。理性的に現実を捉えます。その上で嘆きます。これって正しい態度ですよね。

  2. まりりん より:

    本当に、夢が癒してくれるとは、勝手な都合の良い思い込みですね。
    私は学生時代からずっと、試験の前になると必ずその夢を見ていました。試験がもうすぐ始まるのに、全く勉強してなかったり着替えをしていなかったり。目が覚めて、どっと疲れるのです。数年前に仕事関係の試験を受けた時も同様。また、とうとう来たな、と思ったものです。

    • 山川 信一 より:

      お気持ちがよくわかります。私は夢が喜ばしいものだったためしがありません。見るのは悪夢ばかり。まりりんさんは、過去によほど試験に苦しめられたみたいですね。私も試験が大嫌いです。なぜあのシステムが望ましいのか大いに疑問です。〈一人で・短時間に・正確に〉答えを出す能力は、それほど重要でしょうか。むしろ、〈相談ながら・時間をかけて・間違いを恐れずに〉の方が現実的です。

  3. まりりん より:

    同感です。
    試験には「試験用の勉強」というのがあって、試験を勉強の目的にしてしまうと勉強が酷くつまらなくなってしまいます。だから、学び直しというか気紛れに始めた「国語教室」や英語のラジオ講座がとても楽しく思えるのです。

    • 山川 信一 より:

      「国語教室」は、アンチ試験、アンチ学校教育の原理でしています。今の学校教育は、試験を軸にしたコマのようです。軸を抜けば崩壊してしまいます。でも、どうすることもできません。だから、学校とは別の学びの場がいるのです。ここもその一つです。

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