《浦の雪》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた ふちはらのおきかせ

うらちかくふりくるゆきはしらなみのすゑのまつやまこすかとそみる (326)

浦近く降り来る雪は白浪の末の松山越すかとぞ見る

「寛平御時后の宮の歌合の歌 藤原興風
海辺近く降ってくる雪は、白波が末の松山を越すかと私は見る。」

「越すかとぞ見る」の「か」は疑問の終助詞。「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「見る」は上一段活用の動詞「見る」の連体形。
浦は海が陸地に入り込んだ波が静かな所。しかし、今日の雪は、尋常な降り方ではない。降る雪は、浦を波打ち際まで埋め尽くし、白波と溶け合っている。その様子は、白波が末の松山を越すように有り得ないほどである。
この歌は、「君を置きて徒し心を我が持たば末の松山浪も越えなむ」(1093)を踏まえている。末の松山を浪が越えるとは、有り得ないことのたとえである。人口に膾炙していたこの歌を踏まえることで、雪の降り方がいかに尋常ではないことを読み手に伝えようとしている。「見る」という語を使い、それを実際に見ていること、自ら経験していることを強調している。説得力を持たせるための用法である。
雪のバリエーションとして、山や里に降る雪に続き、海に降る雪を出してきたのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    海に雪が降る という発想を今まで持ったことがありませんでした。雪はやはり山や谷や里に降り積もるイメージだったので。この意外性が印象的な歌です。
    作者は、過去に実際にこのような景色を見て体験したのですね。でも場所は末の松山ではなかったのかも知れませんね。
    余程の大雪だったのでしょう。絶え間なく降りしきる雪は、降るそばから海に飲み込まれて、、、立つ白浪は溶ける前の雪のように見えます。

    • 山川 信一 より:

      確かに海に降る雪はイメージは持ちにくいですね。降っても溶けるばかりなので、絵になりません。しかし、これが波打ち際になると、白い波が雪と重なります。おっしゃるように「立つ白浪は溶ける前の雪のように見えます。」これで絵になります。作者はそこを狙ったのでしょう。

  2. すいわ より:

    視界が真っ白なのですね。雪の粒がムーブメントを感じさせ、さながら海の波飛沫が末の松山を越えて浦を埋め尽くすように。「見る」とする事で実体験としての臨場感が出るのと同時に、視覚に絞られます。荒れた海だとすると波音は必須で、雪にはそれが無い。視覚に絞る事で不自然さがなくなります。海は雪を吸い込み、雪は音を飲み込む。この歌の場合、視覚に絞って正解ですね。

    • 山川 信一 より:

      ここは「海の波飛沫が末の松山を越えて浦を埋め尽くす」と言うより、白波に雪が加わり浦を埋め尽くすばかりか遂に末の松山を越えてしまうという感じでしょうか。
      「見る」によって、聴覚を排除し、読み手の意識を視覚に絞ったのですね。なるほど、この場合、波音はノイズですね。映像に集中できます。波音も吸収する雪の激しさが目に浮かんできます。

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