《山彦でさえも》

題しらす 読人しらす

うちわひてよははむこゑにやまひこのこたへぬやまはあらしとそおもふ (539)

打ち侘びて呼ばはむ声に山彦の応へぬ山はあらじとぞ思ふ

「思い悩んで呼び続ければその声に山彦も応えないはずがないと思う。」

「(呼ばは)む」は、未確定の助動詞「む」の連体形。「(応へ)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(あら)じ」は、打消推量の助動詞「じ」の終止形。「(と)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「思ふ」は、四段活用の動詞「思ふ」の連体形。
私が思いあまって呼び続けたら、その声に山彦でさえも応えないはずがありません。まして、人として心を持つあなたなら応えないはずがないと信じています。
作者がどれほど誘い続けても、恋人は何の反応もしてくれない。そんな恋人の薄情さを指摘して気持ちを動かそうとしている。非情な山彦でさえ、呼び続けていれば応えてくれる。まして、人としての心あるあなたなら当然応えるはずだと迫るのである。恋人が自分の行動を少し広い視野で捉え、反省してくれることを期待している。
山繋がりで山彦の歌を出す。歌は表面的には、山彦のことしか言っていない。しかし、言外には多くの思いが込められている。しかも、「む」と「じ」を対照的に用い、すべてを「思ふ」範囲のことだとしている。これが相手に皮肉と取られるかは微妙なところではあるけれど、押しつけがましくはない。編集者は、こうした点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    私の思いを乗せた声が山彦となって帰ってくる。繰り返し往復し、あなたとの間に私の気持ちばかりが積み重なって行く。山彦でさえ応えて来るのだから、あなたも応えてくれるものと期待しております、、。
    山彦と言うのだから一度や二度の事ではないのでしょう。いっそ「嫌い」と言われる方がまだこちらに意識が向いているわけで、「無関心」となるとどうにも。難攻不落な相手なのかも知れませんね。

    • 山川 信一 より:

      山彦とのたとえは、一方通行で相手の反応が返って来ない状態をたとえてもいるのですね。返って来るのは自分の声だけ。この気持ち、共感できます。恋ではありませんが、教師時代の私に似ています。「無反応」ほどつらいものはありません。「無反応」「無関心」は、人を殺します。多くの生徒は、試験のためだけに授業を受けていましたから、反応することなど考えてもいませんでした。私の授業はまさに山彦でした。この「国語教室」とは、そこが違います。心からありがたく思っています。

    • まりりん より:

      どんなに相手に気持ちを伝えても一向に振り向いてくれない。虚しさを覚えながらも相手を責めることはしない。ただひたすら、待つと言うのですね。
      この奥ゆかしさに、心動かされるかな?

      先生、ドキッとする事仰います。私も当時は試験の為だけに勉強していました。小学校低学年頃はそんなではありませんでした。新しいことを学ぶのが「楽しくて」、ただ「好き」だったのです。それが、振り返れば中学受験が境だったでしょうか。いつの間にか試験の為の勉強にシフトしてしまいました。だから、勉強がつまらなかったし、嫌いでした。
      今の子供たちにも、点数が取れる長文読解のテクニックではなくて、学ぶ楽しさを教えてあげて欲しいと、心から思います。

      • 山川 信一 より:

        まりりんさん、正直に話してくださってありがとうございます。お気持ちよくわかります。私も生徒として同じような経験がありました。いつも試験に脅えていました。同じように思う生徒が沢山いるに違いありません。だから、教師になってからは、「面白くなければ国語じゃない」と生徒に公言して授業をしていました。ただ、どこまで結果が出せたかは心許ない限りです。そんな私にとって「国語教室」は罪滅ぼしでもあります。これからもずっと、まりりんさんが楽しく学んでいけるように努力します。どうか、今まで通りにいっぱい反応してください。

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