いなむとしければ、女、
あづさ弓引けど引かねどむかしより心は君によりにしものを
といひけれど、男かへりにけり。女いとかなしくて、しりにたちておひゆけど、えおひつかで、清水のある所にふしにけり。そこなりける岩に、およびの血して書きつけける。
あひ思はで離れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる
と書きて、そこにいたづらになりにけり。
男が行ってしまおう(「いなむ」は〈往ぬ+む〉)としたので、女は(慌てて引き止めて)、歌を詠む。
〈あなたが私を引こうと訊くまいと、つまり、あなたが私を愛そうと愛すまいと、あるいは、他の男が私を引こうと引くまいと、昔から私の心はあなたの方に寄っていましたのに。〉
女は、男を本当に愛していることに気づいた。あるいは、前の歌で男の気持ちを試したことを後悔した。だから、「あづさ弓」を受けつつ、自分の思いをストレートに歌にした。
「あづさ弓」は〈引く〉の枕詞で「より」はその縁語。女は「むかし」という語によって、ずっと以前から愛していたことを強調する。
しかし、男は無視して帰ってしまった。女を許せなかった。初めの歌は「ただ」と言い、言い訳がましく、次の歌は、「今宵こそ新枕すれ」と言った後で、今更未練がましく聞こえたのだ。
女は自分の歌が男の心を動かさないことを知る。この「かなしくて」の意味は、今と変わりがない。ただ、もっと強い思いを表す。それで、諦めきれない女は男の後を慕っ(「しりにたちて」)追いかける。(〈捨てないでー〉という思いだろう。)しかし、追いつけない(「えおひつかで」)ので、清水のある所に伏してしまった。そこにあった岩に、指をかみ切って血をもって歌を書き付ける。
〈私だけが一方的に思い(「あひ思はで」)、離れてしまう(「離れぬる」)人を留めることができず(「とどめかね」)、私の身は今こそ消え果ててしまうようです。〉
男を示す言葉が「君」から「人」に変わっている。これは、既に男が遠い存在になってしまったことを表している。現代語でも〈人ごと〉と言うように、「人」という語は、距離感があることを表している。「いまぞ消えはてぬめる」と係り結びが用いられている。「ぞ・・・める」は強調表現で、〈こそ〉の係り結びとは違って、断定している。「める」は、〈めり〉の連体形。〈めり〉は視覚による推定を表す。〈見+あり〉が一語化したもの。自分の目にはそう見えるという意味。段々目が段々かすんでいく感じを表しているのだろう。そして、本当に死んでしまった(「いたづらになりにける」)。
女は指をかみ切ってまで血でこの歌を書いた。そして、死を以て、男に自分の真心を伝えたかったのだ。結局、男の三本の弓が女の心を射貫き、殺してしまったのだ。これも歌の力である。
男は三年も放っておいたくせに、女を許さない。「今宵あはむとちぎりたりけるを」であるから、女は、まだ別の男と関係を持っていない。(「む」は未来を表す。)男の了見が狭いとも思える。しかし、男は女を本当に愛していたから、少しの裏切りも許せなかったのだろう。女がそう決心したこと自体が許せなかったのだ。男にとって、愛は〈うるはしく〉なければならなかった。つまり、完璧でなければならない。自分がそうであるから、相手もそうでなくてはならないと思う。
これでは、かえって窮屈すぎるだろうか。もっとおおらかであった方がいいのだろうか。お互いに少しくらい過ちがあっても、たとえば、互いに不倫をしても、大目に見る方べきなのだろうか。お互いにそこそこでいいのだろうか。もっとも、相手には誠実であることを求めるくせに、自分は大目に見てほしいのでは、虫がよすぎるけれど。
簡単には答えが出ない。これを悲劇と言う。恋愛は本質的に悲劇なのだ。この話はよくできた悲劇である。私たちに男女の恋愛の真実を伝えている。
コメント
男の人は三年も音沙汰無しで待たせたことに対し、すまなかったという反省はないのでしょうか。
一方的に女の人を責めてませんか。お互いさまではないのかな。
自分のことは棚に上げて、女の人を追い詰めてしまい、女の人は悲しみと辛さで死んでしまいました。なんかかわいそうになりました。
死ぬほど愛してたのでしょうか。
でも、こんな、自分のことは棚に上げて一方的に責める男のために死ぬことはなかったと思うのですが。。。
愛とは完璧でなく寛大さも必要です。
らんさん、コメントありがとうございます。確かに男女は対等ではありませんね。二十三段の女は男の浮気を許しました。
しかし、この段の男は女の心変わりを許しません。不公平な気がしますね。背景には一夫多妻制の文化があったのかもしれません。
ただ、この時代の男女はどちらも複数の異性と付き合っていたようです。それを考えると、許せる男もいたでしょう。
一方、この段の男のように潔癖な人もいたのです。そして、女はその男を愛してしまったのです。
それが生んだ悲劇です。男女の仲は、理屈通りには行きません。これは、昔も今も変わりません。
どうすれば良かったのでしょうね。
「今宵にぞ新枕する」と、かえって含みを持たせずに女が歌っていたら、戸を蹴り破ってでも男は女に会っていたでしょうか。相手の気持ち以前に自分の本心に自分自身が気付かない事もままありますし、愛だけではどうにもならない事も、ある。女は本心で男を愛していた、ならば、この男が3年もの間、文の1つも送って寄越さない人だと言う事も分かっていたはず。送り出したその日に女の心はもう既に死んでいたのかも知れません。生身の身体だけが生きる事に縋り付いて心とは裏腹に新しい夫を迎えようとする。「心は君によりにしものを」心はあなたにいつも添っていたのに、という所も、捩れた糸の寄りを戻したかったのでしょうに、捩れ絡まった糸は縫い進める事が出来ず、ご縁の糸を断ち切るしかなかった。女は心と身体を切り離すしかなかったのでしょう。赤い糸でご縁を繋ぐ小指でなく、あの人の為に紅差す薬指でもなく、あの人が欲しいと指差す人差し指を赤く染めて。三人の不幸せな人。
愚かで愛しくて、哀しいですね。
男の態度には、どこか地方差別が感じられます。武蔵や陸奥の女ほどではないにしても、片田舎への差別意識が・・・。
それが歌にも態度にも表れています。あの歌はあまりに残酷な歌です。その後の態度にしてもそうです。
そんな男に惚れてしまったことが女の人生を決めてしまったのです。