十九日、ひあしければふねいださず。
二十日、きのふのやうなればふねいださず、みなひとびとうれへなげく。くるしくこころもとなければ、ただひのへぬかずを、けふいくか、はつか、みそかとかぞふれば、およびもそこなはれぬべし。いとわびし。よるはいもねず。はつかのよのつきいでにけり。やまのはもなくてうみのなかよりぞいでくる。かうやうなるをみてや、むかしあべのなかまろといひけるひとは、もろこしにわたりてかへりきけるときに、ふねにのるべきところにて、かのくにびとむのはなむけし、わかれをしみて、かしこのからうたつくりなどしける。あかずやありけむ、はつかのよのつきいづるまでぞありける。そのつきはうみよりぞいでける。これをみてぞなかまろのぬし「わがくににかゝるうたをなむかみよよりかみもよんたび、いまはかみなかしものひともかうやうにわかれをしみ、よろこびもあり、かなしみもあるときにはよむ」とてよめりけるうた、
「あをうなばらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも」
とぞよめりける。かのくにひとききしるまじくおもほえたれども、ことのこころををとこもじにさまをかきいだして、こゝのことばつたへたるひとにいひしらせければ、こころをやききえたりけむ、いとおもひのほかになむめでける。もろこしとこのくにとはことことなるものなれど、月つきかげはおなじことなるべければひとのこころもおなじじことにやあらむ。さていまそのかみをおもひやりて、あるひとのよめるうた、
「みやこにてやまのはにみしつきなれどなみよりいでゝなみにこそいれ」。
問1「あをうなばらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも」とあるが、元歌の「天の原」を「青海原」に書き換えたのはなぜか、説明しなさい。
問2「いとおもひのほかになむめでける」とあるが、書き手は「愛で」た理由をどう思っているのか、答えなさい。
問3「みやこにてやまのはにみしつきなれどなみよりいでゝなみにこそいれ」を鑑賞しなさい。
まだ船留めが続く。みんな憂い嘆き、苦しくて不安になる。今日は何日か指が痛くなるまで数える。「指も損なはれぬべし」から人々の様子がありありと伝わってくる。気落ちして、夜もなかなか寝付けない。すると、二十日の月が海の中から出て来た。その様子を見たからであろうか、阿倍仲麻呂のことを思い出す。中国に渡って帰国の時に、船に乗る手はずになっているところで、あの国の人は餞別の宴を催し、漢詩などを作ってくれた。気持ちが満たされなかったのだろうか、二十日の夜の月が出るまで宴は続いた。その月は海から出た。これを見て、仲麻呂殿が「我が国ではこのような歌を神代より神がお歌いになり、今は身分の上中下の人がこのように別れを惜しみ、喜びもあり悲しみもある時には読みます。」と言って詠んだ歌。「青海原を遠く眺めれば、日本の奈良の都の春日の山に出たのと同じ月が出ているなあ。」と詠んだのだった。あの国の人はこの歌の意味を理解することができないだろうと思われたけれど、言葉が表す思いを漢字で趣旨を書き出して、日本語を通訳する人に言い知らせたところ、思いを聞き得たのだろうか、たいそう思いの外感動してくれた。中国とこの国とは、言葉が異なるけれど、月の光は同じことであるようなので、人の心も同じことであるのだろうか。(おそらくそうなのだろう。)さて、今その昔を思いやって、ある人が詠んだ歌、「都では山の端に見た月であるけれどこの地では浪から出て浪に沈むのだが・・・」
仲麻呂の元歌の「天の原」はこれから始まる航海への遙けさ、希望を表している。しかし、ここで書き手は、その思いに共感できない。なぜなら、海が大荒れでこれからの航海に不安を抱いているからである。海が恐ろしいのだ。「青海原」には、海への得体の知れない無気味さが込められている。それ故の書き換えである。(問1)
中国人も和歌に思いの外感動してくれた。それは、言葉は違っても、事物に変わりはないし、人の心も同じだからである。『古今和歌集・仮名序』に次のようにある。「大和歌は人の心を種として万の言の葉とぞなれりける」ここで言う、「人の心」とは、「人の一つの心(=共通する心)」を意味する。貫之は、人の心は一つであると考えていた。(問2)
「みやこにて~」の歌は、今の「みなひとびとうれへなげく。くるしくこころもとなければ」という心を表している。月は「海よりぞ出でける」のではない。「海の中よりぞ出で来る」のである。つまり、憎き浪の中から出て、そして、浪の中に沈むのである。「こそいれ」と係り結びにして、言い切ることのできない思い、つまり、京が恋しい、一刻も早く帰りたいという思いを表している。(問3)
コメント
そもそも「天の原」の歌意を誤って受け取っておりました。同じ望郷でも旧国司一行の、指折り数えて、こんなにも月日が経ってしまったとじれて再度再度確認する気持ちと、唐の人々が仲麻呂との別れを惜しみ引き止め引き止められ同じ二十日の月の上るまで旅立ちが延期されたのとでは気持ちに差異のある事に何か違いがあるとは思ったのですが、掴み切れませんでした。何もかも飲み込んでしまう底知れぬ海になす術のない苛立ちもあるのでしょう。京への気持ちは募るばかりですね。
貫之は、語り手が女であることを利用して、記憶が曖昧で正確に覚えていないという設定で書いているのかもしれません。
にしても、語り手の記憶を曖昧にしたのは、仲麻呂との状況の違いにあります。書き手は空なんかよりずっと海に関心が向いています。「青海原」の「青」という言葉に見通しの利かない無気味さを込めています。
青海原、不気味で怖いです。
一刻も早く京に帰りたい気持ちがよくわかります。
「青海原」の「青」は「蒼」の方がいいかもしれません。無気味な色をしています。
その思いを籠めるなら、「天の原」ではなく、「蒼海原」がぴったりしますね。
それにしても阿倍仲麻呂の歌を添削してしまうとは、さすがに貫之です。