《我と心と身と》

題しらす 読人しらす

ひとをおもふこころはわれにあらねはやみのまよふたにしられさるらむ (523)

人を思ふ心は我にあらねばや身の迷ふだに知られざるらむ

「人を思う心は私ではないから、身が迷うことすら知ることができないでいるのだろうか。」

「にあらねばやみ」の「にあら」は、〈なり〉(断定)の意を表す。「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「やみ」には、〈闇〉が掛かっている。「だに」は、副助詞で最小限を表す。「知られざるらむ」の「れ」は、可能の助動詞「る」の未然形。「ざる」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「らむ」は、現在の原因理由を表す助動詞「らむ」の連体形。
人に恋する心は自分ではないらしい。それで、我が身は闇の中を迷うように何をしているのか自分でもわからないのだろうか。多分そうだろう。しかし、こんなことを恋する人に言ってもわかってもらえまい。自分の胸にしまっておこう。恋とは実に捉えどころのないものだ。
この歌は異性を口説くものとは思えない。恋する異性に向けたものではなく、同じような経験を持つ同性に向けたものだろう。その共感を得ようとしている。ただし、この歌も状況によっては、恋する相手に向けたものにもなり得る。たとえば、相手にとんでもない行為をしてしまって、「心」も「身」も「私」ではないのですと言い訳する場合がそれである。要するに、言葉とは、どんな場面で誰に何をどう言うかを抜きに語れない。
この歌には、恋すると「心」「我」と「身」がバラバラになるという発見がある。あるいは、恋すると「心」「我」と「身」が実は別物だったと気づくようになるという発見がある。我々は、いつもは漠然と「心」と「我」と「身」が一つのものと思っているけれど、それは違うと言うのだ。編集者は、この発見に共感したのだろう。また、前の歌との関わりで言えば、恨み言は恋の相手に言うべきものではない。恨み言やぼやきは、独白か、経験者に聞いてもらうだけでいい。編集者は、こうも言いたいのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    分かりにくい歌です。「心」と「我」と「身」がバラバラ? でもそう言えば、すごく悲しかった時とか、どん底に落ちた時とか、心と体がバラバラになって纏まりがつかなくなってしまったような感覚を覚えたことがあります。そう言う感覚に近いでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      普段なら、人は自分という司令塔が心と体をコントロールしています。ところが、恋をするとこのコントロールが難しくなります。そして、初めて「心」と「我」と「身」の違いに気づきます。ただし、気づいたところで恋がどうなるものでもありません。自分で納得するしかありません。

  2. すいわ より:

    前回の歌と比べるととても理性的、内省的。確かに前回の歌のように相手を傷つけるのは相手に思いがあるからこそで、何とも思っていない相手ならば心が波立つこともない。思うが故の裏腹な行動。心と身体のバランスを保てない。自分を思うままに操れない不安。誰もが「恋」とはそういうものだから、と諭しているよう。

    • 山川 信一 より:

      「恋とはこういうものだ。」と、諦めというか、悟りというか、そう思い到ったのでしょう。こうして言葉にしてみれば、少しは救われます。これも歌の効用です。

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