第百六十二段  承仕法師の異常性

 遍照寺の承仕法師、池の鳥を日来飼ひつけて、堂のうちまで餌をまきて、戸ひとつあけたれば、数も知らず入りこもりけるのち、おのれも入りて、たて篭めて、捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草かる童聞きて、人に告げければ、村の男どもおこりて入りて見るに、大雁どもふためきあへる中に法師まじりて、打ちふせ、ねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出したりけり。殺す所の鳥を頸にかけさせて、禁獄せられにけり。基俊大納言、別当の時になん侍りける。

承仕法師:燈明をあげたり、仏に供える水を汲んだりなど、寺院内の雑用に住持する坊主。
おこりて:大勢で出て来る。
別当:検非違使庁の長官。

「遍照寺の承仕法師が池の鳥を日頃飼い慣らして、堂の内まで餌を撒いて、戸を一つ開けていたので、鳥が数え切れないほど入り込んだ後で、自身も入って、戸を閉め切って、捕えては殺した様子が仰々しく聞えたのを、草を刈る子どもが聞いて、人に告げたので、村の男ども大挙して入って見ると、大きな雁たちがバタバタと音を立て逃げ回る中に法師も交じって、打ち伏せ、ねぢ殺したので、この法師を捕えて、その場から検非違使の庁へ突き出した。殺した鳥を首にかけさせて、牢屋にお入れになってしまった。基俊大納言が別当の時でございました。」

ある承仕法師の残虐な行為を生々しく描く。それによって、当時の法師が如何に堕落していたかを伝えている。法師とは名ばかりで、名が実を示していなかったのだ。
では、なぜこんなに大量の雁を殺す必要があったのだろう。一人で食べるにしては、多すぎる。誰かにご馳走する訳でもなさそうだ。これは、実用ではなく、殺すことを楽しむために行ったらしい。この法師は、所謂サイコパスなのだろう。村の男たちがこの法師を検非違使の庁に突き出したのは、その異常性が許せなかったからだ。小動物を虐待する者はいつの世にも存在する。今でも、たまにこうした事件がある。この種の異常性に対する嫌悪感・拒否感は、今も変わらない。これには普遍性がありそうだ。ただし、罰は当時の方が厳しく直接的である。兼好はこの罰を肯定しているようだ。すると、嫌悪感・拒否感の程度は、当時の方が今より強いのかも知れない。現代の方は異常になれているからだろうか。

コメント

  1. すいわ より:

    前にも動物について書いていました。「許さん」の一言に尽きるのでしょう。そうですね、許せない。目的が命を繋ぐ為に食するのでなく、自身の歪んだ欲望を満たす為に他者を虐げる。お腹が空いているのなら食べる分で十分。そうしないのは詰まるところ生活に困らず、暇を持て余しているから。法師って暇なの?仏の道を本気で歩むなら、探究の道は遥かに続くはずなのに。兼好さんのお怒り、ごもっとも。退屈凌ぎに一時的に満足してもその欲の尽きることは無い。足りていることに気付かないから自分で何か足らないものはないか、と探し回った末のことが他者から奪うこと。愚かです。そのままのことが今、正に起こっているのですよね。「異常に慣れて」はいけないのです。

    • 山川 信一 より:

      サイコパスのような異常者は、何が理由かはわかりませんが、悲しいことに一定の割合で存在します。だから、その種の残虐な行為は見逃してはいけませんね。厳罰に処すべきです。さて、テキサス州で酷い事件が起きました。この事件も異常者によるものでしょう。だからこそ、簡単に人を殺せる道具が手に入るようにしてはいけないのです。銃が手に入れれば、それでなくても使いたくなるものですから。

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