《鴛鴦の言い訳》

題しらす よみ人しらす

いけにすむなををしとりのみつをあさみかくるとすれとあらはれにけり (672)

池に棲む名ををし鳥の水を浅み隠るとすれど現れにけり

「題知らず 詠み人知らず
池に棲む鴛鴦のように浅い水に隠れようとするが、名が現れてしまったことだなあ。」

「池に棲む名ををし鳥の水を浅み」は、「隠る」の序詞。「名を」は、「鴛鴦」の枕詞。「をしどり」に「(名を)惜し」が掛かっている。「浅み」は、形容詞「浅し」の語幹と接尾辞の「み」で全体で原因理由や状態を表す。「(すれ)ど」は、接続助詞で逆接を表す。「(現れ)にけり」の「に」完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
私の池には夫婦仲の良い鴛鴦が棲んでいます。それはまさに私たち二人のようです。けれども、池の水が浅いので、水に隠れようとしても体が見えてしまいます。それと同じように、名を惜しんで人目から隠れようとしても、遂に名が現れてしまいました。あまりにあなたへの恋心が募り逢瀬が頻繁だったからでしょうか。隠すことに気が回らなくなっていました。
作者は、自分たちを仲がよいとされる鴛鴦にたとえることで名が現れてしまったことの許しを得ようとしている。これは愛の必然であると訴える。
海から池へと関連づけた。前の歌はたとえが波が打ちつける海岸だったけれど、この歌は穏やかな池になっている。これによって、恋を取り巻く環境が穏やかであろうと、恋は露見する時には露見してしまうことを暗示している。また、序詞の中の「名をおしどりの」を「現れにけり」に響かせるなど表現技巧も周到である。編集者は、こうした点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    川でもなく、海でもなく、池。逢瀬の後、満たされた気持ちの二人、庭の池で遊ぶ水鳥を眺めながら詠んだのでしょうか。
    周りの目を気にして二人の関係を隠そうと努力はするものの、浅い水に潜る鴛鴦のように隠れきれず、自然と波紋は広がり噂が周りへと流れていってしまった。それ程、私たちの中は睦まじいのだから致し方ないよね、と。この歌、添い遂げられる事がほぼ確定しているのか(他からの干渉を受けない池)前の歌と比べると関係が明らかになってしまった割には緊張感を覚えません。

    • 山川 信一 より:

      池といい、鴛鴦といい、たとえに緊張感が感じられませんね。恋の露見を嘆きはしても、それはそれ。もうこのまま添い遂げようと言いたいのでしょう。

  2. まりりん より:

    波が立つこともない、他の河川と合流する事もない池。そこで鴛鴦の夫婦が仲睦まじく水浴びをしている。穏やかで長閑な光景ですね。
    恋の苦しみを乗り越えて、次の段階に移った。安堵と穏やかな幸せに満ちている様子が伝わってきます。

    • 山川 信一 より:

      波も立つことがない池の鴛鴦。これにたとえるのですから、事実として、今の二人は「恋の苦しみを乗り越えて」「安堵と穏やかな幸せに満ちている」のでしょう。でも、『古今和歌集』ではそれを喜びとは捉えません。恋はどこまでも悲劇なのです。でも、さすがに悲劇仕立てには苦労しています。

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