《恋の既定》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた きのとものり

くれなゐのいろにはいてしかくれぬのしたにかよひてこひはしぬとも (661)

紅の色には出でじ隠沼の下に通ひて恋いは死ぬとも

「寛平御時の后の宮の歌合の歌 紀友則
顔色には出すまい。心の中で思って恋い死にしても。」

「紅の」は、「色」に掛かる枕詞。「(出で)じ」は、打消意志の助動詞「じ」の終止形。「隠沼の」は、「下」に掛かる枕詞。
あなたに恋をして私の顔は上気して赤く染まっているかも知れません。しかし、心の内は決して顔色には出しますまい。恋とは忍ぶものですから。心の中で逢えないつらさにひたすら耐えています。ただし、そのつらさは恋い死にしてしまうほどです。しかし、たとえそうなっても、決してこの恋は表に出しません。
作者は、どこまでも恋の既定を守ろうとしている。それが誠実に恋をすることであると信じているからである。だから、素直にそれを伝えることで、相手に自分の恋の誠を伝えているのである。これは、作者の精一杯の恋の表現である。
人は文化の中で生きる。「存在は意識を規定する」と言うけれど、事実に合ってない。逆である。「意識が存在を既定する」のである。人間は、文化・伝統などの「意味環境」に規定される。これが自然条件などの「存在環境」にしか規定されない動物との違いである。ただし、その拘りは客観的に見ると、一面愚かしくもある。この歌は、それをよく表している。編集者は、文化の持つ愚かしさを取り上げたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「かくれぬの」は沼なのですね。一面に緑色の水草が覆う沼のイメージが広がりました。
    恋は忍ぶものだから決して面に出してはならない。私の心(水面下)には溢れるばかりの情熱(紅)があるけれど、あなたの為に誰にも悟られてはならない。たとえ募る思いで恋死にしようとも。湧き上がる気持ちの一方でそよとも動かない水面。息が詰まりそうな詠み手の心の苦しみを紅と緑に可視化する事で読み手にも共有しやすくなっている。本気度が伝わります。歌会で披露するだけのことはありますね。秘める恋心の矛盾、理屈では割り切れない、「愚か」なのが恋なのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      序詞を「息が詰まりそうな詠み手の心の苦しみを紅と緑に可視化する」ものと読み解きましたか。なるほど、納得しました。序詞を飾りなどと済ますなど、とんでもありませんね。
      この歌なら歌合で勝つこと間違い無しですね。さすが友則です。

  2. まりりん より:

    この間まで小町の歌で恋の非常識さを鑑賞していたので、このように真っ当なことを言われることを物足りなく感じてしまいました。でも、すいわさんが仰るように心の内を紅と緑の色の対比で感じると、一気に味わい深くなりました。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』の歌にはそれぞれ他にはない味わいがありますね。豊かな心で読んでいきましょう。
      さて、「非常識」という言葉ですが、この言葉には批判の意味が加わります。言葉は、多かれ少なかれ意味以上の何かを伝えます。まりりんさんの小町への批判と受け取ってもいいのでしょうか?

  3. まりりん より:

    いいえ、小町を否定する気持ちはありません。こういう時は「常識に捉われない」などの言葉の使い方をするべきでしたね。

    • 山川 信一 より:

      「批判」であって「否定」とは思いませんでしたが、そうでしたか、わかりました。言葉は丁寧に使いたいものですね。

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