《雨に濡れても》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた としゆきの朝臣

あけぬとてかへるみちにはこきたれてあめもなみたもふりそほちつつ (639)

明けぬとて帰る道には扱き垂れて雨も涙も降り濡ちつつ

「寛平御時の后の宮の歌合の歌 敏行の朝臣
明けてしまったと言って帰る道には雲が低く垂れ込めて雨も涙も降り濡れながら。」

「(明け)ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形。「(濡ち)つつ」は、接続助詞で反復継続を表す。
夜が明けてしまったと言って、あなたの家から帰る道には、雨雲が低く垂れ込め、私はひどい雨に遭ってしまいました。しかも、それに負けないくらい悲しみの涙が流れ、両方のしずくがぽたぽた垂れることで、全身がびしょ濡れになってしまいました。
男は逢瀬から帰ると、女に歌を贈ることになっていた。それが後朝の歌である。今の思いを伝えるのである。作者は、帰りに雨に降られるという災難を利用する。ものは言いようであり、使えるものは何でも使うのである。
この歌は、前の歌からまた少し時間が経った場面を詠んでいる。作者は既に家に帰って来ている。まさに後朝の歌である。しかし、ありきたりの内容では、単なる儀礼になってしまう。その点、この歌は、雨に遭ってびしょ濡れになったという事情を上手く利用している。つまり、災難にあったことへの女の同情を誘いながらも離れ離れの悲しみを伝えているのだ。編集者はそのしたたかさを評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    まず前々から思っていた疑問。この歌では帰る途中で雨に降られていますが、雨天時の逢瀬、月明かりや明けの朝日の様子を伺えない時、時間の管理をどうしていたのだろう?そもそもお天気が思わしくない日はお出掛けなしだったのでしょうか?
    途中で雨に遭ったにしろ、貴族、歩きの訳もなく、乗り物に乗っていたならばそこまで濡れるはずもない。
    この歌、歌合ということもあって気合を入れて詠んでいるはず。ビジュアルにフォーカスを絞って文字通りの「水も滴る、いい男」を演出したのですね。歌を受け取った女はどう思うか?あぁ、私の気の利かないこと、お引き止めしなければ雨に遭われることもなかったのに、と思うか。雨にそんなに濡れる筈もない、私との別れをそんな風に泣き濡れて下さったのね、と思うか。何れにしても歌を受け取った側は自分を思うその姿を思い浮かべずにいられませんね。彼女への思いを込めた物語をプレゼント。敏行さん、大成功です。

    • 山川 信一 より:

      何となくですが、天気の悪い日はよほどの事情が無くては行かなかったのではないでしょうか。夜明けにしても、明るさで決めていたのでしょう。時計を持っている訳ではないから。要するに感覚で判断していたに違いありません。この歌のような場合は稀だったのでしょう。だから、こんな誇張表現で訴えているのです。雨(と涙)に濡れた自分に酔っていることもあるかも知れませんね。いずれにせよ、受け取った女は、悪い気はしなかったはずです。特別感を持てたでしょうから。

  2. まりりん より:

    泣きながら帰った挙句に雨に降られ、全身びしょ濡れで顔はぐちゃぐちゃに。悲惨な姿が想像できます。確かに、「哀れ」を感じる歌です。多少大袈裟な気もしますが許容範囲で嫌味にもなっていないかと。このような歌は、言葉を間違えると雨の中を帰した相手への恨み言にもなり得ますかね…

    • 山川 信一 より:

      すいわさんも書いていましたが、女は「雨の中を帰した」ことを気にするでしょうか。つまり、雨を理由に帰さないという選択肢はあったのでしょうか。もちろん、とんでもない嵐なら別でしょう。でも、そのまま泊まるのは恋のルール違反ですから、帰すこと自体に後悔はないはずです。

      • すいわ より:

        帰る事は決まり事だけれど、別れを惜しんでほんの束の間、袖を引っ張ってみるとか、暫しの抱擁とか、そんな些細な時間の遅れのせいであの人を雨に遭わせてしまった、という男への申し訳なさを感じるのではと思いました。
        あと、時間の感覚について
        時計などの物理的な目安が無いのに
        細分化した「時」の感覚(暁、曙、有明など)を共有出来ていることを思うと、余程、現代人よりも感覚が優れていたのだろうし、自然と共にあったのだと思わされます。

        • 山川 信一 より:

          なるほど、それはあり得ますね。男を愛する女ならそういう思いを抱きますね。
          時間は、時計ではなく空の様子から判断したのですね。現代人は空を見上げなくなりましたね。

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