《序詞の効用》

題しらす たたみね

みちのくにありといふなるなとりかはなきなとりてはくるしかりけり (628)

陸奥に有りと言ふなる名取川無き名取りては苦しかりけり

「題知らず 忠岑
陸奥にあると言うそうである名取川ではないが、無き名が立っては苦しいことだなあ。」

「陸奥に有りと言ふなる名取川」は、「無き名取りては」の序詞。「(言ふ)なる」は、伝聞の助動詞「なり」の連体形。「(苦しかり)けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
東北にあると名前は聞いていて、実際には見たこともない名取川ではありませんが、人はどうして言葉を聞いただけで、それを知っていると思ってしまうのでしょう。私はあなたに逢ってもいないのに、今事実ではない噂を立てられています。誰もが噂を信じているのでしょうね。事実であれば、仕方がありませんが、あらぬ噂を立てられることは、なんと苦しいことでしょう。
序詞は、同音の「名」を導く働きに加えて、言葉で知っているだけで事実であると信じていることの例証にもなっている。これによって、前の歌同様、相手に噂どおりになりましょうと名と実の一致を促している。そして、その一方で、身に覚えのない噂を流される苦しさを共に味わう被害者としての共感も促している。何であれ、心が通い合いさえすれば、こっちのものである。
前の歌とは「噂」繋がりである。この歌は、序詞が二重に働いている。その用い方に独自性がある。編集者は、その点を評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    前の歌の返歌かと思いました。噂が立つこと自体を迷惑だと感じている。単純に、相手を拒絶しているようにも思えます。背景には共感があることを、余り感じられないのです。。

    • 山川 信一 より:

      前の歌の返歌としても読めますね。「題知らず」ですから、忠岑が女の立場で作ったと考えるのですね。編集者にもそう読ませる意図がありそうです。
      しかし、その一方で、「苦しかりけり」の「けり」は、拒絶の言葉としてはやや露骨です。むしろ、「けり」という助動詞の意味は、今まで気づかなかったことに気づく上での詠嘆ですから、「私はこんなことに気づいてしまいました。あなたもそうですよね」と共感を求めているようにも思えます。

  2. すいわ より:

    京の都からは遥か彼方、一生に一度訪れる事があるかどうかのまさに未知の存在のような不確かなものの為に煩わされる苦しさ。当事者同士であるはずなのに、詠み手は歌を受け取る相手に寄り添うような素振りを見せるわけですね。「あなたはお困りのことでしょう、お力になりますよ」とでも言っているように聞こえなくもない。前の歌同様、マイナス要素を敢えて逆手に取ってプラスになるよう利用する。有るものを無いとするより、無いものを有ると思うことの方が人間には受け入れ易い心理なのかもしれませんね。

    • 山川 信一 より:

      「名取川」は、「未知の存在のような不確かなもの」をイメージしていると取ることもできそうですね。当時の人にとってそんな存在だったでしょうから。
      「苦しかりけり」を相手の気持ちと取ったのですね。これなら、「相手に寄り添う」こおtになりますね。
      無いことを証明するのは不可能に近い。一つでもあれば、その論は否定できるから。人はそれを知っているので、無いものでも有るように語るのでしょう。それが噂です。こう言っておけば、それらしい事実の一つや二つは出てきそうですから。

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