《吉野の恋人》

やまとに侍りける人につかはしける つらゆき

こえぬまはよしののやまのさくらはなひとつてにのみききわたるかな (588)

大和に侍りける人に遣わしける 貫之
越えぬ間は吉野の山の桜花人づてにのみ聞き渡るかな

「大和に居りました人に贈ってやった 貫之
山を越えない間は吉野の桜花を人づてにばかり聞き続けることだなあ。」

「(越え)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「のみ」は、副助詞で限定を表す。「かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
吉野の里ではもう桜の花が咲いたでしょうか。京から山を越え大和へ行かない間は桜のことは人づてに聞くばかりです。もちろん、私が吉野へ桜の花を見に行くのは、あなたに逢いに行く口実でもあります。逢いに行かれない今は、桜の花のように美しいあなたのことを人づてに聞いて忍ぶばかりです。桜の花が開花する頃、逢いに行くので待っていてください。
大和の国にいるのは、作者が思っている女性である。「桜花」は、その女性をたとえている。作者は何かの事情で逢いに行かれない。その辛さを詠んでいる。
前の歌とは、植物繋がりである。ただし、素朴な真菰から華やかな桜花になっている。もちろん、この歌も遠距離恋愛の辛さを詠んではいる。しかし、その一方で、『古今和歌集』には珍しく、恋人に逢える期待感や華やいだ気分が伝わってくる。編集者は、その新鮮味を評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    「越えぬ」には吉野の山を越えぬと、想う人との一線を越えぬが掛かっていて、人は皆貴女を素晴らしというけれど、本当の貴女は共寝をしてみないとわからない、と暗に言っているようにも思えました。でも、貫之はそんな露骨な言い方は好まないでしょうかね。
    正月早々、下品で恐縮です。

    先生、すいわさん、皆様、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
    今年は私もすいわさんのように、素敵な物語を語れるように努力してみようと思います。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、そう読みましたか。おもしろいです。確かに「越えぬ」と入っていますが、何を越えたのかは言っていません。もちろん、文脈からは、何らかの「山」でしょう。しかし、「想う人との一線」かも知れないし、今自分が抱えてくる難事かもしれません。だから、まりりんさんのように読んでもいいでしょう。大人の女性の読み方ですね。賛同する人も多いでしょう。貫之にもその含みがあったかも知れません。ただ、次の歌を合わせて読むと、この女性とは既に懇ろになっていたようです。

      まりりんさん、こちらこそ本年もよろしくお願いします。どうぞ、まりりんさんはまりりんさんの読みを展開してください。

    • すいわ より:

      ご挨拶が後になってしまいました。
      先生、まりりんさん、皆さま、本年も変わらず「国語教室」で学びをご一緒できる事、嬉しく、有り難く思うばかりです。こちらこそどうぞ宜しくお願い致します!
      まりりんさんのさらりと詠まれるお歌、私にはとても出来ないので尊敬しております!昨年からまりりんさんが参加して下さって、私には到底思い至れない読み、考えに触れられ、日々「今日はどんな読みをなさるだろう?」と楽しみでなりません。
      教室に参加して下さる方がまた増えると良いですね。様々な考えの交換が出来ると楽しいですよね。“読み専”の方も今年は是非!

      • 山川 信一 より:

        すいわさん、今年もよろしくお願いします。読みの深さにいつもはっとさせられます。今度はどう読むかなと楽しみにしています。
        「“読み専”の方も今年は是非!」は、私の今年への思いを代弁してくれました。ありがとうございました。

  2. すいわ より:

    山の向こう、なかなか逢いに行けない人へ桜になぞらえて思いを歌に託す。どんなにか美しいだろうに、ここからでは見る事ができない。ただただその美しさを人の口から聞くばかり。では、あの山を越えてこの目で見たら?それはきっと筆舌に尽くし難いものなのではないだろうか。あぁ、ひと目見たいものだ(あなたに今すぐにでも逢いたくて堪らない)。情景を詠んでいるのに恋焦がれる思いが伝わるのが不思議。心が桜色に染まって行く感じがします。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんらしい詩的な読みです。作者の清らかな心情が伝わってきます。作者はよほどこの女性に惚れているみたいです。でも、こんな歌をもらったら、相手の女性も心動かされることでしょう。

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