《朝の寝床》

題しらす そせい法し

はかなくてゆめにもひとをみつるよはあしたのとこそおきうかりける (575)

儚くて夢にも人を見つる夜は朝の床ぞ起き憂かりける

「題知らず 素性法師
束の間夢にも人を見てしまった夜は朝の寝床が起きづらいことだなあ。」

「(見)つる」は、意志的完了の連体形で終了を表す。「(床)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(憂かり)ける」は、詠嘆の助動詞の連体形。
束の間の夢にまでもあなたを見てしまいました。ただし、それは私のあなたへの思いが見せたものです。けれど、あっけなく目が覚めてしまいました。夢は、頼りなくあてになりません。思い通りにはいかないものです。なのに、そうは思ってもまだぐずぐず夢に期待して寝床が離れられません。そんな夜は、朝の寝床が何と起きづらいことでしょう。それに気づき驚いています。あなたが逢ってさえくだされば、こんなことは知らずに済みましたのに。ただし、きっと別の意味で起きづらかったに違いありませんが・・・。
短い時間であっても夢で恋人に逢うことができた。しかし、それは恋人が自分を思ってくれたからではない。夢は自分の意志で見たものなのだ。その思いを「見つる」で表している。また、そんな夢のあっけなさ、頼りなさを「儚く」で表している。そして、それに気づいた驚きを「ける」で表している。
編集者は、作者がこの細やかな心の動きを捉え、「儚く」「つる」「けり」で表した点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「ゆめに“も”」なのだから目覚めている時は当たり前に逢えない人の事を思っている。眠りに着く時にも、どうか夢路であなたに逢えるようにと願い、なのに逢えたのはほんの束の間、夢の続きを期待して、二度寝してしまいたい。でも、、夢でそんな束の間しか逢えないということは私はその程度にしか思われていないと言う事なのか?夢は夢でしかないのにそんな思いに囚われてなかなか床から抜け出せない。
    法師であれば現実に逢う事など叶わない、その現況故に儚い夢に縋るしかないという事なのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      作者が法師であることと、歌の内容はあまり関係無いと思います。歌は、誰かのつもりになって詠むことができますから。「題知らず」とは、それを意味しているのでしょう。つまり、私の個人的な内容ではありませんよと。これから先に出て来る恋の歌もそうなのですが、素性法師は助動詞「つ」の使い方が上手いのです。「ぬ」との違いを効果的に使っています。そこを読み落とさないようにしましょう。

  2. まりりん より:

    夢での逢瀬は、恐らく殆どが「束の間」に感じますよね。ほんの短い時間でも逢えたことに満足するのか、不満足なのか、、この場合はどちらなのでしょう?
    もっと夢を見ていたかったのに覚めてしまって残念、でも貴女に束の間会えたことは嬉しかった、、といったところでしょうか。だって、自分の意思で夢の中まで逢いにいったのですから。

    • 山川 信一 より:

      恋の夢に限らず、起きるに起きられず寝床にぐずぐずしていることは誰にでもあります。経験の無いことも、有ることから想像できますね。

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