《女の春愁》

題しらす 小野小町

はなのいろはうつりにけりないたつらにわかみよにふるなかめせしまに (113)

花の色は移りにけりないたづらにわか身世にふるながめせしまに

「花の色は褪せてしまったことだなあ、空しく、私自身が世に処していくことで物思いに耽っている間に、そして、長雨が世に降って讃美する暇も無かった間に。」

ながめ:「長雨」と「物思いに耽る」の意を表す。

外見上は、「うつりにけりな」と「いたづらに」で切れているように見える。しかし、意味上の切れ目はない。「いたづらに」は上下に働いている。すなわち、桜の花が色褪せたことだけでなく、作者自身が身を処すことや長雨が降り続くことが「いたづらに(=むなしい)」のである。また、「なかめせしまに」は、「はなのいろは」に続いている。つまり、この歌は、文の構造上永遠に循環するように作られている。
桜の季節であるのに、春の長雨が降り続いている。作者はそれを眺めつつ、世の中に自分の身を処していくことへの物思いに耽っている。その間にせっかくの桜も空しく色褪せてしまう。それは、何とも切りの無い堂々巡りの思いなのだ。
作者が美人に誉れが高い小野小町であれば、花の色が褪せることが、自らの容色が衰えることの暗喩のようにも感じられる。恋をするのにふさわしい季節に思い悩んでいるうちに自らの容色も衰えてしまうと嘆いているのである。

コメント

  1. すいわ より:

    百人一首で馴染みがありました。「季節が移ろうように我が容貌も衰えていってしまう」の意味合いで受け取っておりました。「長雨」を表すとは思いもよりませんでした。暖かな春の雨に足留めされて、来るはずのあの人に逢えぬうちに花の見頃も過ぎてしまう、悩ましいこと、私の美しさにも翳りが、、文字通り、恋する季節に水差す雨なのですね。桜と風の歌は沢山見てきましたが、雨との取り合わせ、珍しいですね。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、百人一首にも取られているので、馴染みがあり、何となく理解されています。しかし、『古今和歌集』的表現を駆使した名歌です。幾重にも仕掛けられた表現を味わってください。小野小町、恐るべしです。

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