《物に寄り添えない影》

題しらす 読人しらす

こひすれはわかみはかけとなりにけりさりとてひとにそはぬものゆゑ (528)

恋すれば我が身は影となりにけりさりとて人に添はぬものゆゑ

「恋するので、私の身は影となってしまったことだなあ。だからと言って、人に添わないのだけれど・・・。」

「(恋すれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「なりにけり」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。「(添は)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「ものゆゑ」は、接続助詞で逆接を表す。
私は、あなたに恋するあまりに、ものも食べられなくなりました。そのため、痩せ衰えて影法師のようになってしまいました。影なら実体に寄り添うものです。実体有っての影ですから。影の私の実体とは、もちろんあなたです。私はあなたによってできた影。でも、だからと言って、決してあなたに寄り添うことはありません。あなたに近づくことせ許されないのですから。そんな憐れな影なのです。
作者は、自分を影にたとえる。影とは、実体によって生じそれに寄り添うもの、存在感が希薄なもの。今の自分はまさに影であると言う。そして、自分が影の一面にのみ似ていることを嘆く。実体に寄り伴えるという肝心のことが伴っていないからである。つまり、物事には必ず反面があり、長所があれば短所もある。ところが、影になった自分は短所ばかりで長所が無いと言うのである。
恋する自分を影にたとえる発想自体はそれほど独創的ではない。『万葉集』にも既に出ているし、現代人の感覚でも素直に共感できる。これは、むしろ常識的な捉え方である。しかし、この歌は、そこに留まらず、影なのに実体により添わない点を指摘している。そこにこの歌の独創性がある。また、「ものゆゑ」で終わりすべてを言い尽くさず、余韻を持たせている。これなら、読み手が表現に参加でき、その分心が動くかもしれない。編集者は、この着眼点と表現の工夫を評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    恋するあまりに食事も喉を通らなくなり痩せ衰えてしまった。肌はくすみ活気が無くなり表情も無くなった。まるで抜け殻、影法師のよう。でも実体はあなたに近づけない。それでも、心は影法師のようにいつもあなたに寄り添っています。
    前の歌は男性的と思いましたが、この歌は何となく作者は女性の気がします。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。この時代女性は、男性が来るのを待っているしかありませんでしたからね。ただ、その女性は「心は影法師のようにいつもあなたに寄り添っています。」と思っているのでしょうか。否です。事実として寄り添えないだけでなく、こう思うことすらできません。だから、この歌を詠んだのです。つまり、救いが全くありません。

  2. すいわ より:

    「我が身は影と」の影は「痩せ細る」という意味なのですね。恋にのめり込み忘我となり実態はあるのに自らの意思で動けない状態を「影」と表現したのだと思いました。あなたの影であればいつ何時も離れずにいられる筈なのにそれができない、と。なるほど。
    この歌を読んで「紫の上」が思い浮かびました。彼女自身が「藤壺の宮」を意識する訳では無いのだけれど、常に彼女の影を源氏は紫の上の中に求めていて、歌とは反対になってしまいますが、愛情が実態のある本体を通り越してしまうような違和感とでもいうのか、もし、紫の上がその事に気付いたとしたら心を塗り潰してまさに「陰」になってしまうのではないかと。本当に今、そばに寄り添えているのは誰なのだろう、と。最後の「ものゆゑ」はこのくらい妄想する程度の効果が確かにあります。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、影の比喩に意味は「恋にのめり込み忘我となり実態はあるのに自らの意思で動けない状態」はいいですね。私は、あまり深く考えずに伝統的な意味に解してしまいました。確かに痩せ細って実体が希薄になるという意味もあるでしょう。しかし、少なくとも、この意味を付け加えたいです。いい読みです。
      紫式部は、この歌から「紫の上」と「藤壺の宮」の関係を考えたのかも知れませんね。確かに「ものゆゑ」は様々な想像をかきたてます。「ものゆゑ」が利いていますね。

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