《神が認めた恋》

題しらす 読人しらす

こひせしとみたらしかはにせしみそきかみはうけすそなりにけらしも (501)

恋せじと御手洗川にせし禊ぎ神は受けずぞなりにけらしも

「恋すまいと御手洗川でした禊ぎを神は受けずになってしまったらしい。」

「(恋せ)じ」は、打消意志の助動詞「じ」の終止形。「(受け)ずぞ」の「ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(なり)にけらしも」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けらし」は、過去推量の助動詞の連体形。「も」は、詠嘆の終助詞。
あなたに逢えないことが耐えられないほどつらいので、もう二度と恋などすまいと、神社のそばを流れる身を清める川で恋の煩悩を洗い清めました。ところが、その禊ぎを神様は受納しないでしまったらしいのです。なぜなら、何の御利益もなく、私は今でもあなたに恋いし続けているからです。つらくてなりません。神様が恋を止めるのを許してくれないのです。
作者は、恋は神仏の力も及ばないという一般論が言いたいのではない。私のあなたへの恋は神さえも止めることを許さないと言いたいのだ。つまり、この恋は、神が認めた恋であるから、受け入れてほしいと迫っている。
編集者は、口説くためには神仏までも利用するという恋の一面を示している。ちなみに、この歌は『伊勢物語』第六十五段に出て来る。

コメント

  1. すいわ より:

    『伊勢物語』第六十五段、印象的なストーリーでした。この歌、物語の中に置かれているときは登場人物の年頃や状況に合っていてとても効果的でした。でも、歌単体で見ると、本心でないと見透かす神、当然その禊を受け取るはずがなく「神が恋を止める事を許さない」という自分本位な解釈。一方的な思いを押し付けられる女はどんな気持ちだろうと考えてしまいました。着眼点は斬新なのだけれど。

    • 山川 信一 より:

      手厳しいご批判ですね。確かに、作者は本心で恋を止めたいとは思っていませんね。これでは神も禊ぎを受け入れるはずもありません。しかし、こんなに苦しいならいっそのことと思って禊ぎをしたことに嘘はないし、その結果を利用して、何としても女を口説こうとしている気持ちにも嘘はありません。あとは、それを女がどう受け取るかに掛かっています。

  2. まりりん より:

    恋愛は遊びの要素も多いと思いますが、この歌のように「神が認めた恋」となると、この恋は神聖なものであると、真剣であると暗示しているように思えてきます。
    だからと言って、他の恋が真剣でないというわけではありませんが。。

    • 山川 信一 より:

      恋のためには、手段を選ばすということでしょう。神様を出されては、対抗のしようがありませんね。さて、女は口説かれるでしょうか?

  3. すいわ より:

    何でしょう、この歌単体で見ると、歌の表現の可能性として「こんな方法もある」と作った感があるとでも言えば良いのか、物凄く考えて工夫を凝らした感じが、こちらも考えて受け取ろうとしてしまう。心の動きより先に「思考」してしまう。
    斬新な方法だからこそ歌のパターンとして是非取り上げておきたい。だからその有効性を後付けのストーリーとして『伊勢物語』で肉付けする事で「歌」に昇華したのではないか?そんな風に考えてしまいました。

    • 山川 信一 より:

      確かに、この歌は理が勝っているところがあります。でも、こうした発想を捨てがたく、『伊勢物語』で生かそうとしたのでしょうね。すいわさんの考えに賛成します。

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