《初夏の嘆き》

やまし 平あつゆき(篤行)

ほとときすみねのくもにやましりにしありとはきけとみるよしもなき (447)

郭公峰の雲にや交じりにしありとは聞けど見る由も無き

「ホトトギスが雲に交じってしまったのか。いるとは聞くけれど見る方法も無いなあ。」

「(雲)にや」の「に」は、格助詞で場所を表す。「や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして文末を連体形にする。「(交じり)にし」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。ここで切れる。「(聞け)ど」は、接続助詞で逆接を表す。「無き」は、形容詞「無し」の連体形。連体止めで、余韻・詠嘆を表す。
ホトトギスを見ない。まして、初音は耳にしない。ホトトギスは雲にでも交じってしまったのか。確かにいたとは聞くけれど、私にはその姿を見る方法も無いなあ。見も聞きもしないうちに季節が移ろってしまったようだ。
ホトトギスは、夏の到来を告げる鳥である。ウグイスと共にその初音を待つ鳥である。ところが、その年、作者は初音を聞いていない。それどころかその姿すら見ていない。確かにいたという話だけは聞いている。雲に交じったのかという大袈裟な表現によって、初音を聞くどころか、見すらできない残念な思いを表している。題の植物は、季節が移ろい、この植物が咲く季節になってしまった事態を暗示している。
この植物は、ハナスゲとも言う。

コメント

  1. まりりん より:

    ハナスゲの別の名前? ん〜、わかりません。
    ホトトギスは、雲に混じって姿を隠している、初夏の到来をはっきり知らせずまるで出し惜しみしているかのよう。あるいは、ホトトギスは居たということだけれども、声も聞かないし姿も見ないのだから、本当は居ないのではないか? 春がまだ終わってほしくない、という作者の願望のようにも思います。

    • 山川 信一 より:

      「やまし」と言うのだそうです。私も知りません。ただ、ハナスゲで辞書を引いてみると、確かにこの名前も載っています。7月頃咲くのだそうです。それなら、ホトトギスとは少し季節がずれます。季節の移ろいを一つ一つ感じることなく、季節が移ろってしまうことへの残念な思いを詠んだのでしょう。
      ホトトギスの姿を見たいと言うことですから、「春がまだ終わってほしくない、という作者の願望」ではないと思います。

  2. すいわ より:

    「はなすげ」これも漢方薬に使われますが「知母(ちも)」、文字数も合わないし、そもそも歌に含まれていませんね。わかりません。
    郭公、声は聞いても姿を見せないのは定番ですが、遙か上空の雲に隠れてしまったのか?というところが当て所無さを感じさせます。言葉通り「闇雲」、季節を迎える期待感が時間の経過とともに反転、雲の印象そのままの気持ちの翳りを思わせます。

    • 山川 信一 より:

      ハナズゲも漢方薬に使われるのですね。すいわさんは、漢方薬にお詳しいですね。ハナスゲを辞書で引くと、「やまし」という別名が出てきます。当時は、こっちの方を使ったのでしょう。
      歌には「雲」が出て来ます。これは、「やまし」の〈山〉からの連想でしょうか。雲も山も遠い存在。ホトトギスは、もう影も形もないのです。その喪失感を詠んだのでしょう。

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