《根源的な悲しみ》

題しらす よみ人しらす

ちるはなをなにかうらみむよのなかにわかみもともにあらむものかは (112)

散る花を何か恨みむ世中に我が身も共にあらむものかは

「散る花をなんで恨もうか。世の中に私自身も同様に有るものだろうか、ありはしない。」

「恨みむ」で切れる。「何か」の「か」は係助詞で、反語を表す。「どうして・・・しようか、しない。」「ものかは」は連語で「もの」は形式名詞、「か」と「は」は終助詞で、感動込めて反語を表す。「・・・だろうか、いやそうではない。」
散る花を見て恨めしく思う気持ちを反省している。考えてみれば、恨めしく思う自分自身だって、桜と同様にこの世に長くありはしない。花のように散ってしまう身なのだ。自分には桜が散るのを恨む資格など無いのだと。
桜を一方的に見る対象としてではなく、自分と対等の存在として捉えている。つまり、桜をはかなさを共有する仲間として見ている。これは、自分自身を外側から捉える視点である。それによって、散る花への主観的なぼやきではなく、人間存在への根源的な悲しみまでも表している。

コメント

  1. すいわ より:

    気付いてしまったのですね、自分自身も桜と同じなのだと。
    美しく咲き誇る花時は皆夢中、花の頃は短くて散り行く事を嘆かれて。やがて関心も薄れて、、。権勢を誇る人が詠んだものか、恋に敗れた女が詠んだものか。桜を自らに寄せて捉える事での発見、全ては一連、隆盛な時だけが存在の価値ではないですね。

    • 山川 信一 より:

      題知らず、詠み人知らずの歌ですから、様々な状況に当てはまります。恋に破れた者も、年を取った者も、権力を持つ者も、それを失う者も、時にこうした思いに駆られます。
      相手の非を恨むのではなく、自らも大きな視野で眺めて見ろということですね。また違った答えが出て来ます。、

  2. らん より:

    そうですね。
    自分だって桜と同じ、散る身ですよね。
    桜と自分を対等に見ること、新鮮でした。

    • 山川 信一 より:

      チャップリンの「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ。」を思い出します。
      時には、カメラを引いて、視点を変えることが必要ですね。

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