みちのくにへまかりける人によみてつかはしける つらゆき
しらくものやへにかさなるをちにてもおもはむひとにこころへたつな (380)
白雲の八重に重なる彼方にても思はむ人に心隔つな
「奥州へ下る人に詠んで送った 貫之
白雲が八重に重なる彼方でも君を思うだろう人に心を隔つな。」
「(思は)む」は、未確定の助動詞「む」連体形。「(隔つ)な」は、禁止の終助詞。
白雲が幾重にも重なるその向こうの遠い遠い旅先であっても、君をこうして思うであろう人がいる。その人に対して体は仕方ないけれど、心を隔てないでくれ。その人は君と疎遠になりたくないのだ。いつでも君を思っている。君もその人を思っていてくれ。
「みちのく」は、当時は「白雲の八重に重なる彼方」に思えるほど遠いところに感じられたのだろう。これはたとえではあるが、素直な実感であったに違いない。自分を「思はむ人」と第三者として表現している。それによって、言わば神の視点に立ち、友に命じている。そこに新鮮味がある。また、「心を隔つな」と命令口調で言うことで、友への思いの強さと友との親しさを表している。
この歌は『万葉集』の次の歌を踏まえている。「山川を中に隔(へな)りて遠くとも心を近くおもほせ我妹」(巻十五)恋愛関係を友人関係に置き換え、「おもほせ」という肯定表現を「隔つな」という否定表現に変えている。
コメント
「心隔つな」と命令形を使っていることが印象的です。
「みちのくにまかりける」というのは、左遷人事なのでしょうか、、? だとしたら、命令形を使うことで作者の友への強い思いを伝え、遠くへ行く友を叱咤激励しているようにも思えてきます。
あるいは、「友」は女性で、幼なじみで子供の頃から密かに心惹かれていた。その彼女が結婚して夫となる人の居るみちのくに行くことになった。離れても貴女を思っているよ、という気持ちと、諦めなくてはならない辛さを強い口調に表している、、とか。
自分的には前者に1票です! 全く見当違いかも知れませんが。。
陸奥に行く人は、友人でしょう。幼馴染みの女性は考えにくい。「心隔つな」と言えるほどの友人が自然です。ただ、なぜこう言うのかと考えると、この友人はもう来れっきりだと心を閉ざしているのかも知れません。左遷人事に拗ねているのでしょうか?
遠い遠い地へと旅立つ人。地方勤務でしょうか、きっと行きたくないけれど行かざるを得ない。周りの家族も気が気でないでしょう。当の本人もその待遇に心閉ざし、家族の慰めの言葉も届かない。
貫之が間に入って宥めているのかと思いました。娘婿とか。でも、貫之ですものね。
貫之自身が心閉ざされた相手だったとは。そしてその外側から俯瞰で眺める誰かがいて呼びかけているとは尚更思いませんでした。
陸奥への左遷人事に友人は心を閉ざしているのでしょう。そこで、神の視点に立って、その人(つまり自分)は、どんなに遠くいてもあなたを忘れない。だから、その人(=自分)には心を隔てるなと命じているのです。神の言葉のように。神様はすべてお見通しですからね。