数週の後

人事を知る程になりしは数週《すしう》の後なりき。熱劇しくて譫語《うはこと》のみ言ひしを、エリスが慇《ねもごろ》にみとる程に、或日相沢は尋ね来て、余がかれに隠したる顛末《てんまつ》を審《つば》らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕《つくろ》ひ置きしなり。余は始めて、病牀に侍するエリスを見て、その変りたる姿に驚きぬ。彼はこの数週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬《ほ》は落ちたり。相沢の助にて日々の生計《たつき》には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。

「豊太郎が人事不省になって数週の間に事態はすっかり変わってしまった。相沢が訪ねてきて、エリスにこれまでの顚末をすべて話してしまった。エリスはやつれ果てていた。あの美少女の面影はどこにもない。しかも、相沢がエリスを精神的に殺してしまった。この展開をどう思う?」
「まず結果だけを述べて過程を述べていない。これは読者の興味を惹くためだね。」
「人事不省になっている間にすべてが終わっている。豊太郎は、遂に現実に立ち向かうことがなかった。自分の正体をエリスの前に曝け出すことも、エリスから罵声を浴びることもなかった。結果的に虚栄心を保てたって訳だ。」
「それで、豊太郎はほっとしているのだろうか?」
「それはあり得るよね。そういうヤツだから。」
「ある意味、豊太郎にふさわしい結末だね。鷗外は敢えてそうしたんだ。自分を変える機会を永遠に失ったんだから。」
「気になるのは「此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。」という台詞だ。自分が原因じゃないか。なんで相沢のせいにするんだ。」
「どこまでも、卑怯なヤツ。自分の責任を回避しようとしてるんだ。」
鷗外は豊太郎を徹底的にダメ人間に描こうとしている。この日本一の優等生のなれの果てをどこまでも無様に描いている。このエリートは、ドイツの貧しく無教養な踊り子の少女にも人間的に劣っているのだ。
こうして、読者がどこまでも酷評できるようにしている。その結果、読者の共感を極力排除するようにしている。読者はいくらでも、好きなように批判できる。それは、その批判が豊太郎を生み出した俗物の母親、そして、日本の教育に向けられるようにするためだ。

 

コメント

  1. すいわ より:

    何一つ自ら解決しないまま目覚めた時には豊太郎の茶番劇は幕を閉じていたのですね。破滅を望んだのは豊太郎なのに、夢から覚めて現実を見せつけられたのは、絶望の闇に落とされたのはエリス。読者は勿論、豊太郎に罵声を浴びせたいところだけれど、それをしていいのはエリスだけ。口出し出来ない観客は粛々とこの顛末を見守ってエリスの現実を胸に刻むしかありません。第二のエリスが生まれないよう、第二の豊太郎を育てないよう。ここまで書いて物語だった、と我に返りました。作者の強いメッセージを受け取った思いです

    • 山川 信一 より:

      読者は、豊太郎に罵声を浴びせてもいい、しかし、それは自らに浴びせる罵声でもあるのです。同時に罵声を浴びせる資格があるかどうかを自らに問うべきです。そして、その資格を得るよう努めるべきです。
      言葉は、統辞論・意味論・語用論の三点から認識しなくてはなりません。統辞論は、語と語との関係。意味論は、言葉と現実との関係。語用論は、言葉とその使用者との関係です。
      ここで言えば、語用論は、鷗外がなぜこう書いたのかを考えることです。

  2. らん より:

    そうですね。私たちは豊太郎を責められないですね。
    自分の中にも物事の流れで、豊太郎みたいになって、知らないうちに人を不幸や悲しくさせてしまったことがあるのかもと思うと、「豊太郎は自分だ」って思います。
    エリスを想うと、辛いです。。。かわいそうだな。

    • 山川 信一 より:

      周りに合わせて生きる。人の目を基準に生きる。「いいね」を欲しがって生きる。私たちは、いつの間にかそんな生き方をしています。
      それが時に自分を含めてとんでもない不幸をもたらすことがあります。自分にとって、そして、人間にとって、何が大切なのか考えてみたいですね。

タイトルとURLをコピーしました