題しらす よみ人しらす
をりてみはおちそしぬへきあきはきのえたもたわわにおけるしらつゆ (223)
折りて見ば落ちぞしぬべき秋萩の枝もたわわに置ける白露
「折り取って見るなら落ちてしまうに違いない。秋萩の枝もたわわに置いている白露は。」
「見ば」の「見」は上一段活用の動詞「見る」の未然形。「ば」は、接続助詞で仮定条件を表す。「落ちぞしぬべき」の「ぞ」は、係助詞で文を強調する。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「し」は、サ変動詞「す」の連用形。「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形。ここで切れる。以下は倒置になっている。「置ける」は、「置く」の存続の言い方。「白露」は、歌語で「露」のこと。
秋萩の枝がたわむほどに置かれている白露。何という美しさだろう。折り取って手元に置きたいと思う。しかし、それは儚いゆえの美しさなのだ。もしその美しさを我がものにしようと手に取れば、すべて落ちてしまうに違いない。枝にあるこのひととき味わうしかない。しかも、その美しさは万人のものであって、一人が独占することはできない。美とは、本来そういうものなのだろう。
前の歌と同様に、萩の露の儚い美しさを詠む。ただし、前の歌が玉のような形状に焦点を当てたのに対して、この歌ではその量に焦点を当てている。枝がたわむほどの迫力に圧倒されたと言うのだ。
この歌には、次のような技巧が凝らされている。初めの文は、主語が省略されている。読み手に「何が?」と疑問を抱かせ、読み手の興味を誘うためである。その答えは、倒置によって歌の最後に明かされる。そのことで、歌に興味を持たせ一気に読ませ、かつ「白露」の印象が強く読み手の心に残る仕掛になっている。
コメント
「折りて見ば落ちぞしぬべき」で既に萩のひと枝を想像するのでしょう。そしてその後の量感に圧倒される。重たげにしな垂れる銀色に光る一面の萩、ほんの少しでも触れてしまえば均衡は崩れて一瞬にしてこの景色は崩れてしまう。それが秋風に揺れて起こるとも限らない。でも人が介在する。「折りて」と冒頭に置かれることで枝を折る音がスイッチになり飽和した世界が崩れる事を予感させ、その行為に至らせない。刹那の秋は清涼で静寂。
{「折りて」と冒頭に置かれることで枝を折る音がスイッチになり飽和した世界が崩れる事を予感させ、その行為に至らせない。刹那の秋は清涼で静寂。」見事な鑑賞です。作者の意図を言い得ています。情景がいっそう目に浮かびました。
何を折るの?と思いました。倒置法ですね。
露の玉って綺麗ですよね。
たわわって言葉もいいですね。
たくさん葡萄がなっているみたい。
重い枝が上下に揺れて、ゆっくりしなってる様子が思い浮かびました。
素直な鑑賞ですね。「折りて見ば」は、露の危うさを連想させます。危うさも美しさの条件になりますね。