やよひにうるふ月ありける年よみける 伊勢
さくらはなはるくははれるとしたにもひとのこころにあかれやはせぬ (61)
桜花春加はれる年だにも人の心に飽かれやはせぬ
うるう月:暦の関係で、ある月が終わった後に続いてもう一度繰り返す同じ月のこと。この年は三月が二度あった。その結果、春が四ヶ月になった。
だに:「あかれやはせぬ」に掛かる。〈せめてそれだけでも〉という気持ちを表す。
あかれやはせぬ:「あか」は動詞。〈十分に満足する。〉「れ」は受身の助動詞「る」の連用形。「やは」は係助詞で疑問。「せ」は動詞「す」の未然形。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。係り結びになっている。
「三月に閏月があった年に詠んだ 伊勢
桜の花は、せめて春が加わった年だけでも、人の心にもう十分だ、満足したと思われないだろうか。」
桜は見事であるが、直ぐに散ってしまう。それが実に残念だ。しかし、他の年は無理でも、春がひと月分長い年は、ゆっくり咲いて、人の心にもう満足したと思われてくれたらいいのにと言うのである。
閏月は、暦の都合で出来たもの。春そのものが長くなった訳ではない。しかし、作者は無理を承知でこう言うことで、桜への深い思い入れを表している。特別の年には、特別の思いがあるのだ。
コメント
駆け足で過ぎていく花の季節、せめて弥生の月が二度あるこの春は桜の花をたっぷり味わえたと思えるだけ存分に咲いていて欲しい、と。花時が短いからこそ、こうした思いが芽生えるのですね。
こう表現することで、花期が短い桜を惜しむ思いを表現したのです。
「年だにも人の心に飽かれやはせぬ」という表現が実に凝っています。それによって、桜への複雑な思いを表しています。