いにしへより、かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、うたの心をしろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。秋のゆふべ、龍田河にながるるもみぢをば、みかどのおほむめに、にしきと見たまひ、春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には、くもかとのみなむおぼえける。又、山のべのあかひとといふ人ありけり。うたにあやしく、たへなりけり。人まろはあかひとがかみにたたむことかたく、あか人は人まろがしもにたたむことかたくなむありける。
この人々をおきて、又すぐれたる人も、くれ竹の世々にきこえ、かたいとのよりよりにたえずぞありける。これよりさきのうたをあつめてなむ、万えふしふとなづけられたりける。
ここからは、より具体的に歴史に言及する。
「和歌は、古よりこのように伝わる中でも、奈良時代より広まったのであった。あの時代は、天皇が歌の心をおわかりになっていたのだろうか。あの時代に、正三位、柿本人麻呂こそが歌の聖であった。これは、天皇も臣下も、歌を歌う立場では対等であったに違いないということだろう。
(文徳)天皇の目には、竜田川を流れる紅葉が錦に見え、(「竜田川紅葉乱れてながるめりわたらば錦中やたえなむ」)春の朝、吉野の山の桜は、人麻呂の目には、雲とばかりに思われた。(この歌は不明。)
また、山部赤人という人がいた。山部赤人は、歌に人知でははかれないような不思議さがあり、技芸が極めて優れていた。人麻呂と赤人は甲乙付けがたい。人麻呂、赤人以外に、また優れた歌人も、多くの世に聞き知られ、その時々に存在した。この時代より前の歌を集めて、『万葉集』と名付けられたのだった。」
序文の書き出しに「やまとうたはひとのこころをたねとしてよろづのことのはとぞなれりける」とあったが、この「よろづのことのは」は、『万葉集』を暗示していたことがわかる。ここには、『万葉集』への尊敬の念が感じられる。そして、『古今和歌集』は、その流れを酌む正統な後継者だと言いたいのだろう。
コメント
あぁ、万葉集、なるほど!身分、立場の違う、住む場所も違う、それこそ何処にでもいる市井の人達の素朴な歌も大樹の一葉として編まれていますね。そこを目指す、と。貫之は生まれ育った狭い貴族社会の外側から俯瞰で世界を見ている、なかなか出来ないことです。
『万葉集』を継承するというのは、和歌の裾野をできるだけ広げたいという思いがあるのでしょう。しかし、和歌はそれなりの教養が要ります。市井の人たちが気軽に作れるものではありません。
恐らく、『万葉集』の庶民の歌は、家持らがそれらしく作ったのでしょう。多分そこには民族をまとめるという政治的な意図があったようです。
『古今和歌集』になると、どの歌もひと筋ならではいかない技巧的なものばかりです。歌の手本を作るという別の意図が働いたのでしょう。
庶民の歌はそれらしく作った、びっくりです。でも、冷静に考えてみれば一般庶民が言葉、文字を操るだけの教養を身につけられる機会はなかなか無いと考えると納得です。
政治的意図があったにしろ、ささやかな庶民の暮らしに貴族の眼差しが注がれ歌が詠まれたという事実は確かなもので、たとえそれが「フリ」であっても、貫之にしたみたら「政治利用」を利用して和歌の裾野を広げ深めるために万葉集は格好の手本だったのですね。
『万葉集』は、ある意味で実に巧みに作られています。単純に素朴とは言えないのです。
それに対して、『古今和歌集』は、『万葉集』と違って、貴族の歌集と批判されます。しかし、問題はそう簡単ではないようです。