今の歌人の状況

ここに、いにしへのことをも、うたの心をもしれる人、わづかにひとりふたり也き。しかあれど、これかれ、えたるところ、えぬところ、たがひになむある。

「今ここに、古のことも、歌の心も知っている人は、わずかに一人二人である。そうではあるが、この人あの人、歌の心を身に付けているところも、そうでないところも、それぞれにある。」

かの御時よりこのかた、年はももとせあまり、世はとつぎになむ、なりにける。いにしへの事をも、うたをもしれる人、よむ人おほからず。いま、このことをいふに、つかさ、くらゐ、たかき人をば、たやすきやうなればいれず。

「平城天皇の御代よりその後、年は百年あまり、天皇は十代になってしまった。古のことも歌のことも知っている人、歌を詠む人は多くない。今このことを言うのに、官位の高い人は、軽々しいようなので入れない」

今は、古のことも歌の心も解しているものは少ないと言う。その上で、今の歌人の状況を具体的・批判的に語り始める。

そのほかに、ちかき世に、その名きこえたる人は、すなはち、僧正遍昭は、うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見て、いたづらに心をうごかすがごとし。

それ以外に、近い世に、その名を聞き知られる人は、つまり、僧正遍昭は、歌の形は成っているが、誠が少ない。その歌をたとえるなら、絵に描いた女を見て、空しく心を動かすような感じだ。
たとえば、僧正遍昭に次の歌がある。
浅緑糸縒り掛けて白露を玉にも抜ける春の柳か
柳の美しさを詠んでいる。しかし、作者は、巧みに言葉を用いてはいるが、その美しさに本当に感動しているのだろうか。表現の巧みさには感心するが、心からは共感できない。貫之はこう言いたいのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    和歌を詠む裾野を広げるにあたって型は勿論のこと、何よりも歌に込める心を大切にしたいのですね。
    僧正遍照、「あまつかぜ、、」の人ですよね。随分な言われようですが、柳の歌、確かに細部の技巧に凝ってしまった結果、全体を眺めた時に主題がぼんやりしてしまいます。「読んで、考えて」しまうのです。心をもってダイレクトに心に伝える和歌、貫之の目指す和歌の譲れないところなのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      後世(この記述によって)六歌仙と呼ばれる人たちをここまで批判できるのですから、貫之の自信は相当なものです。
      「天つ風~」の歌にしても、「絵に描いた女を見て、空しく心を動かすような感じだ」と言われれば、そんな気もします。

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