《涙の弁明》

題しらす 平貞文

まくらよりまたしるひともなきこひをなみたせきあへすもらしつるかな (670)

枕より又知る人も無き恋を涙堰き敢へず漏らしつるかな

「題知らず 平貞文
枕以外に知る人のない恋なのに、涙が止められず漏らしてしまったことだなあ。」

「(人)も」は、係助詞で強調を表す。「(恋)を」は、接続助詞で逆接を表す。「(敢へ)ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「漏らしつるかな」の「漏らし」は、「涙」の縁語。「つる」は、意志的完了の助動詞「つ」の連体形。「かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
この恋は、これまで枕より他に二人の関係を知る人も一切無いはずの恋でした。私はあなたとの関係を大切にして、誰にも漏らさないように努めてきたからです。それはわかっていただけますね。それなのに、あなたが恋しくて涙が込み上げてなりません。涙を堰き止めることができなくなりました。それで、とうとうこの恋を自ら他人に知らせてしまったのです。ああ、こんな私をどうかお許しください。
作者は、恋の掟を自ら破ってしまったことの許しを請うている。ただし、それは決してこの恋を軽んじているからではないのだと弁明しつつ。
作者は、これまでこの恋が誰にも知られなかったことを「枕より又知る人も無き恋」と「枕」を擬人化して言う。「もし枕が人であったら、なるほど枕は知っている。それは認めよう。しかし、その他には誰も知らない。」と。これは、二人の関係がいかに秘密裏になされていたかを表している。また、「涙堰き敢へず漏らし」を「堰き敢へず」「漏らし」とこの順で書くことで、「漏らす」の意が単に涙を「漏らす」だけでなく、「他人に秘密を知らせる」でもあることを表している。。編集者はこうした細やかな表現を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    この枕にしか私の心を打ち明けられない苦しさ。独寝の寂しさに声をひそめて枕を濡らす事はあったけれど、あなたへの思いが募ってこの枕で涙を堰き止められないほどに泣き濡れる。零れる涙と共につい言葉が漏れてしまったのです、、。恋の約束事を破ってしまった、でもその気持ちは枕を共にしたあなただからこそ、分かっていただけますよね?と。この思い、隠しきれない所にまで来たのだと相手にも覚悟を促しているように思えます。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんの解釈には違和感を感じます。なぜなら、この解釈では「枕」が客体(対象)になっているからです。つまり、心を打ち明ける対象、涙で濡らす対象、涙を堰き止める対象と解されています。しかし、この歌の「枕」はそうではありません。「枕」は、唯一二人の恋を知っている主体なのです。歌では、それを擬人化することで示しました。意味無く擬人化した訳ではありません。

      • すいわ より:

        おっしゃる通りに解釈していました。枕を冒頭に持ってくる意味がありませんでしたね。二人の秘密を知るたった一人(一つ)の証人。枕が外へ出る事はないから、秘密を漏らしたのは詠み手なのですね。“枕”に打ち明けるだけでは足らず思わず漏洩させてしまった秘密。それだけ詠み手には相手が大切であるが故に大きく重い秘密なのだと許しを乞いつつ伝えているのでしょうか。

        • 山川 信一 より:

          まりりんさんへのコメントにも書きましたが、この枕は二人の共寝の幸せを知る者として登場しているのではないでしょうか。「“枕”に打ち明けるだけでは足らず」とありますが、作者が恋の秘密を枕に殊更打ち明ける対象とは読み取れません。作者の意志に拘わらず、枕は「勝手に」二人の共寝の幸せを知っているのです。

  2. まりりん より:

    枕の擬人化が印象的です。涙で濡れた枕には、作者の悲しみや戸惑いが染み込んでいる筈。顔をうずめれば慰められる心地がするかも。でも一方で、枕が他人の目に触れたら、その濡れた様子で「漏らされて」しまうかも知れませんね。

    • 山川 信一 より:

      この枕は、独り寝の侘しさや悲しさを知る枕として登場しているのでしょうか。もしそうであれば、「作者の悲しみや戸惑いが染み込んでいる」可能性があります。しかし、この枕は幸せな二人の共寝を知る者として登場しているのではないでしょうか。

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