《涙の激しさ》

題しらす なりひらの朝臣

あきののにささわけしあさのそてよりもあはてこしよそひちまさりける (622)

秋の野に笹分けし朝の袖よりも逢はで来し夜ぞ漬ち勝りける

「題知らず 業平の朝臣
秋の野に笹を分けた朝の袖よりも逢わないで帰って来た夜が濡れ勝ることだなあ。」

「(分け)し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「(逢は)で」は、打消の意を伴う接続助詞。「(来)し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「(夜)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(勝り)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
以前、あなたの家から帰る朝、露っぽい秋の野に笹を分け入ったことがありました。それで私の袖は朝露にひどく濡れてしまいました。しかし、その朝よりもあなたに逢はないで帰って来た夜の方が私の袖はずっと濡れています。あなたが逢ってくれない悲しみの涙でびしょびしょになるからです。私の悲しみのほどがどれほどであるか、おわかりいたたげますか。
「逢はで来し夜ぞ」によって、それまでは逢ってくれていた女が態度を変えて逢ってくれなくなった事情を表している。袖を濡らすものとして〈露〉と〈涙〉が対照されている。しかし、その語は出さず、「朝」と「夜」で代用し、読み手に想像させている。表現の細部まで心が行き届いた極めて技巧的な歌である。
編集者は、冬の雪の歌に続いて、秋の笹の露の歌を出してきた。この歌は、秋の野の笹の露っぽさが利いている。読み手の経験に訴えることで涙の激しさを想像させる。秋の季節感が巧みに恋の歌に生かされている。編集者は、この点を評価したのだろう。ちなみに、この歌は次の歌とセットになって、『伊勢物語』の二十五段に出て来る。

コメント

  1. すいわ より:

    伊勢物語25段、物語の中では女が更に上手でしたが、歌単体で見ると、イメージし易く情景も心情もダイレクトに伝わってきます。逢瀬の後の充足した気持ちで露に輝く笹原を通り、しっとりと濡れた衣。それとは対照的に逢えない辛さ、独り寝の寂しさに流した涙に濡れる袖。確かに濡れる原因の露、涙が歌の中には書かれていないのにありありとその様子が思い浮かびます。冷静に考えればきっと笹原の方が衣は濡らすはずですが、「逢えない」ことはそれにも勝ると訴えているのですね。

    • 山川 信一 より:

      笹原で濡れるイメージを持たせることによって、涙のほどを想像させています。かつての逢瀬の季節は秋だったのでしょう。その季節感を巧みに利用していますね。抜かりのないさすがの歌です。

  2. まりりん より:

    「朝露」と掛けて「涙」と解く。その心は? 「袖を濡らす」といったところでしょうか。
    上手いですよね。
    秋の季節感が寂しさを増しますね。これは恋の歌でもあり、季節の歌でもあるかな…

    • 山川 信一 より:

      もちろん恋の歌です。季節感はそのための手段として用いられています。誇張表現ではありますが、嘘くさく感じません。気持ちが伝わってきますね。

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