題しらす たたみね
いのちにもまさりてをしくあるものはみはてぬゆめのさむるなりけり (609)
命にも勝りて惜しくあるものは見果てぬ夢の覚むるなりけり
「題知らず 忠岑
命にも勝って惜しくあるものは見果てぬ夢の覚めることであったなあ。」
「(見果て)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「なりけり」の「なり」は、断定の「なり」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
これまでは命ほど惜しいものは無いと思っていました。しかし、そうではなかったのです。現実に逢うことのできないあなたに夢では逢うことができました。なのに、結ばれることもなく目が覚めてしまったのです。私はそれをどれほど悔しく惜しく思ったことでしょう。あの夢の続きを見ることができたなら、この命を捨てても惜しくはないとさえ思いました。命以上に惜しいものがあることに初めて気が付きました。
命という掛け替えの無いものを比較の対象とすることで、自分がいかに相手との逢瀬を求めているかを伝えている。逢瀬の見果てぬ夢の続きを見られるのなら、命も惜しくないと言うのである。こう言うことで、自分が現実にどれほど逢いたいのかを訴えている。
人は恋をすると、恋人のためなら命も惜しくないとか、逢えないなら死んでしまうとかいう思いに駆られることがある。恋は命や死を連想させる。しかし、この歌はそれをストレートに言うのではなく、「見果てぬ夢」を挟んでいる。そのことによって、夢でさえこうなのだから現実には更に一層と思わせている。言わば、恋心を増幅して伝えているのである。そこにこの歌の独自性がある。編集者は、こうした配慮を評価したのだろう。
コメント
逢えないあなたにせめて会えるならと眠りに着いて、その夢路で折角あなたに会えたのに逢瀬が叶わぬまま目覚めてしまった。夢の続きを見られるのなら命をかけてもいいのになぁ、、え?あの人何言っているのかしら。夢に命をかけるなんて。夢は夢でしかないのに。夢の中の私に命をかけられるなんて、そんなに思って下さるのなら仕方がない、会って差し上げましょう、、と女に優位な立場と思わせたままチェックメイト。大人の恋の駆け引きですね。
現実から夢へとレベルを下げた所がこの歌のミソですね。さりげないけれど、なかなかしたたかです。
小町の「思いつつ寝ればや…」を思い出しました。この忠岑の歌の方がより現実的で切羽詰まった印象を受けます。やはり、命とか言って、、死を連想してしまうからでしょうか。
少し重いかな。。
作者の中には、当然小町のこの歌があったはずです。同じ夢を扱うなら、この歌を乗り越えなければなりません。また、女なら「覚めざらましを」でいいのでしょうが、男ならそれでは済みません。そこで、命を出してきたのでしょう。