《枝の泡雪》

題しらす 読人しらす

あはゆきのたまれはかてにくたけつつわかものおもひのしけきころかな (550)

泡雪の溜まればかてに砕けつつ我が物思ひの繁き頃かな

「泡雪が木に溜まると耐えられず落ちて砕ける。そのように砕けながら物思いばかりしているこの頃だなあ。」

「泡雪の溜まればかてに」は、「砕け」を導く序詞。「ば」は、接続助詞で条件を表す。「かてに」は、「・・・することができず」という意を表す連語。「(砕け)つつ」は、接続助詞で反復継続を表す。「(頃)かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
泡雪が枝に溜まっています。すると、それは、次第に自身の重みに耐えかねて落ちて砕けてしまいます。そして、それを繰り返しています。その様子は、まさに近頃の私そのものなのです。あなたへの思いに胸がいっぱいになっては、それに耐えきれず訳がわからなくなり、この泡雪のように心が粉々に砕け散ってしまいます。しかも、それを繰り返していているのです。
季節が冬になったからと言って、恋心が無くなるわけではない。冬でも恋は続く。作者は、冬に於ける自分の恋心を木の枝に溜まる泡雪にたとえることで可視化する。共感を呼ぶように、恋人もよく知っているはずの風景を利用したのである。
秋に続いて冬の恋の歌を載せる。恋が季節を選らばなくても、冬の恋の歌は冬の題材を選ぶ。この歌は、題材の選び方が上手い。また、「かてに砕けつつ」という表現に独特の工夫がある。「かての」の上に「溜まり」が省略されている。上手い言葉の省略である。編集者は、これらの点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    淡雪、降り積むそばから溶けて、、ではなく「砕けつつ」、そもそも淡い雪なので降り積むこともままならないのか?「砕けつつ」にする事で思うばかりで心を伝えることすら出来ず、幾度となく心折れてそれでも淡い思いを寄せずにいられない事を表現したのか?
    「砕けつつ」の言葉を見て確かに木の枝に降り積んで、でも重さに枝がしなり、雪が弾かれ粉々に舞い散る映像が思い浮かびました。ごくごく若い人の初心な恋心なのかと思って読みましたが、相応の年の人の歌で、思いが重すぎて袖にされている?

    • 山川 信一 より:

      この雪は、「淡雪」ではなく「泡雪」です。どちらもと溶けやすいことは同じですが、「淡雪」は、春の雪を表します。この歌は冬の歌ですから「泡雪」です。泡のように軽く柔らかな雪ですから枝に溜まることができます。それでも溜まれば固まり、落ちて砕けます。でも、翆和さんが思い浮かべた映像はその通りです。
      恋の苦しさに耐えられなくなって、もうどうでもいいと投げ出しても、解放してくれません。しばらくすると甦ってくる。老若男女にとって、恋とはそういうものかも知れません。

  2. すいわ より:

    ちゃんと「泡雪」と書いてあるのに「淡雪」だと春だなぁと思いながら読んでしまいました。失礼しました。
    表層雪崩を「アワ」って言いますね。砕け弾けるイメージが「泡」にはあるのですね。結んでは消え、消えては結ぶ泡のような雪。虚ろで儚い揺らめく恋の状態となるほど似ています。

    • 山川 信一 より:

      ここでは、季節感が重要なのでしょう。次の歌があるので、春先の雪とは読めません。確かに、泡は恋の儚さに通じますね。

  3. まりりん より:

    「淡雪」と「泡雪」は違うのですね。春と冬で区別をするのですか?
    枝に積もっていく泡雪のように、私の思いもどんどん積もっていく。それなのに、あなたは振り向いてくださらず、私の心は凍えて氷のように固まってしまう。そしてついに枝から落ちて、砕け散った。。

    • 山川 信一 より:

      「淡雪」と「泡雪」は、どちらもやらかな雪であることには変わりありません。実は、「あわゆき」が「泡雪」で、「あはゆき」が「淡雪」なのです。二つは別語です。ですから、ここは「あはゆき」とありますから「淡雪」なのです。しかし、ここは季節から言って、「泡雪」でなくてはならないと考えました。、

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